バルビローリ卿のマーラー交響曲第5番を聴いて思ふ

mahler_5_barbirolli_npoかくなる次第にて「第5」の大判総譜をただちにお送りくださいますようお願いいたします。と申しますのも、はなはだ大がかりかつまた重大な修正を行ったので、これらの改訂箇所をあなたに管弦楽パート譜にしかるべく公演に間に合うように書き込んでいただくためであります。
1905年11月、ウィレム・メンゲルベルク宛
ヘルタ・ブラウコップフ編・須永恒雄訳「マーラー書簡集」P316

さらに、あなたのところで行った「第5」についての私の修正も見事に保管していただいておりますが、私の譜面にも書き加えておいてくださいませんか。これはそのうちにしていただければ結構ですが。
1906年9月12日付、ウィレム・メンゲルベルク宛
~同上書P329

「第5」の送付をご返却いただきたいへん有難う存じます。・・・私の「第6」はまたしても堅い胡桃のようです。我が批評家諸氏のやわな歯では噛み砕くことなどかなわないでしょう。
1906年10月15日付、ウィレム・メンゲルベルク宛
~同上書P331

ほとんど高校生の頃のように、来る日も来る日も四六時中マーラーを聴いていると相応の発見がまたあるもの。やっぱりこの人はナルシストだ(上記メンゲルベルク宛の手紙を観ても仕事への情熱、悪くいえば執着が半端でないことが手に取るようにわかる)。しかし、そのことが悪いとは僕は思わない。どんな性質も一長一短で、マーラーの場合、自己陶酔的であったがゆえにオーケストラを徹底的に鍛え上げ、確信を持って音楽を再創造することができたであろうことも事実。お蔭で指揮者として名を成したわけだし、シンフォニストという意味においても、100年後に世界中でこれほど愛されるものだとはおそらく本人も想像すらしていなかっただろう需要があるのだから、それはたいしたもの。そもそも賞賛があれば批判があるのがこの世のバランスというもので、それだけ彼の音楽が多くの人々に注目されているということだ。

交響曲第5番嬰ハ短調は「支離滅裂」音楽の極致だとずっと僕は思っていた。
いや、ことさらに無駄が多いというのは事実であり、集中して聴き続けることが難しい音楽であることには違いない。ましてや凡演だと他のどんな音楽よりも辟易させられる。それでも、一期一会のつもりでEMIのボックスからその1枚を取り出して聴いて驚いた。辟易どころか、つい真面目に聴いてしまうほどのエネルギーとパッションに満ち、何よりオーケストラのアンサンブルが、多少の乱れはあるもののかえってそれが音楽的色彩として生き、最初から最後まで息つかせぬ調子でマーラーが表現されているのだから。この人の音楽でこういう気持ちになったのは久しぶりかも・・・。

マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
サー・ジョン・バルビローリ指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1969.7.16-18録音)

サー・ジョン・バルビローリがニュー・フィルハーモニア管弦楽団との録音セッションでマーラーの第5交響曲を採り上げたのは、45年前のちょうど今頃。尻上がりに調子を上げる、第3楽章スケルツォ(ホルン・ソロの堂々たる咆哮が素敵)以降が絶品。
第4楽章アダージェットの静けさと陶酔(ナルシスト、マーラーの真骨頂を示す)に心洗われ、終楽章ロンド―フィナーレの、弦楽合奏を伴奏に奏でられる木管群の調べに頭と身体が悦ぶ。

 

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