ズーカーマンのブラームス「ヴィオラ・ソナタ」を聴いて思ふ

brahms_viola_sonaten_zukerman武満徹が逝って間もなく18年になる。この人の音楽をピアニストの小川典子は「奥ゆかしいほどの普遍的な優しさがある。これでもかこれでもかと自己主張を繰り返す西洋音楽の中にあって、武満の音楽は、『大丈夫ですか。気高く生きてくださいよ』と、心の深淵に語りかけてくるのだ」と的を射た言葉で表現する。武満徹の作品は、謙虚で思いやりに溢れ、阿吽の呼吸をもつ、まさに大和魂というものが中心に流れる音楽たちということだ。

1996年1月17日に行われた、病床に就く武満への最後のインタビュー記事が手元にある。ここで武満氏はブラームスの旋律について次のように語る。

たとえばね、クラリネットのソナタがあります。ヴィオラでもよく弾く。それの第2楽章、ゆっくりした楽章に、すばらしいメロディが出てくるわけね。・・・(中略)・・・ブラームスの旋律が非常に偉大だと思うのは、真にロマンティックで、私たちに訴える力がある。それでいて、ひとつも不自然でない。
それはなぜかというとね、・・・(中略)・・・ひとつの旋律の中に、非常に解放的で明るい生きる喜びと、突然、ある哀しみ、暗さ―人間が生きていくことの―があって、おおげさにそれが闘うというんじゃないんだけれど、最後に、また元に戻ってと、どんどん離陸していくんですね。・・・(中略)・・・
今僕は、飛行機が離陸していくようにと言ったけれど、最後は高く昇っていく。人間の明るさ、暗さ、生きていくことの難しさ―そういう2つが渾然となっていって、最後には昇華されて昇っていく。

なるほど、ヘーゲルのいうアウフヘーベンであり、天才の音楽がスパイラルで上(神)に向かってつながってゆくものなんだという証ともなる重要な言葉である。

ブラームス:
・ヴィオラ・ソナタ第1番ヘ短調作品120-1
・ヴィオラ・ソナタ第2番変ホ長調作品120-2
・「F.A.E.ソナタ」からスケルツォ
ピンカス・ズーカーマン(ヴィオラ&ヴァイオリン)
ダニエル・バレンボイム(ピアノ)(1974.11録音)

ブラームスの音楽に、武満に通じる「奥ゆかしいほどの普遍的な優しさ」を僕は見る。
実に、ブラームスのその謙虚さを示す言葉が残されている。死の前年、1896年のものだ。

(過去の作品を)模倣して勉強したのはたしかだ。ある作曲家からは熱心に、別の作曲家からは適当に。いいかい、それが勤勉ということだよ。・・・僕の初期作品を見てごらん。次から次へと勉強していることがはっきりわかるから。いやいや、そんなことはどうでもいいよ。
ブラームス回想録集②「ブラームスは語る」P155-156

何という奥ゆかしさ!!
そのことを理解しつつ、実際にクラリネットの、あるいはヴィオラのソナタを聴いてみると、得も言われぬ優しさに溢れることが体感できる。武満氏のいう第2楽章というのは作品120-1のことを指す。僕は基本ウラッハのクラリネットによる超名盤を愛聴するが、ズーカーマンによるヴィオラ版も出色。艶やかな音色で歌も雄弁で・・・。何よりバレンボイムの伴奏が対等に機能しており素晴らしい。昔から思うのだが、バレンボイムはピアニストとしてずっとやるべきだったと・・・。

バッハ同様ブラームスも地に足のついた天才だったということ。すなわち模倣、勤勉という方法の前提に武満氏のいう「昇華」なる音楽が現れ得るのだと言っても良いだろう。

 


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