ハーディング&ウィーン・フィルのマーラー交響曲第10番を聴いて思ふ

mahler_10_harding_vpo「凹凸の法則」なるものがある。
世の中のすべては「凹のエネルギー」と「凸のエネルギー」で成り立っており、しかもこの2つは互いに引き寄せ合い「完全な形」になろうとする力、すなわち引き寄せ合う性質があるというものだ。
例えば、傷つきやすい人は必ず他人を傷つける要素も秘めていると。あるいは自己否定という「凹のエネルギー」が強ければ、相手を見下す攻撃的な「凸のエネルギー」を持つ人を引き寄せ、その2人は互いに疑問を感じつつも離れることができず、悲喜交々ドラマを演じ続けるのだと。

もちろん、凹凸2つのエネルギーは両方セットで自分の内側に存在するものでもある。よって、相手は自分の内なる凹凸を知らせてくれる鏡の存在であるということだそう。首肯。

グスタフ・マーラーとアルマ・シントラーのことを想った。互いに相手が鏡であることを見抜けず、しかも自身の内面についても直視できなかったがゆえ、運命に翻弄された。しかし一方で、そういう負の体験のお蔭でマーラーは現代に引き継がれるいくつもの傑作交響曲を生み出すことができたともいえる。あのあらゆる感情の発露たる大交響曲群、あるいは抑圧されしものを解放するが如くの歌曲作品たちの源泉はマーラー自身が「負」に抗うことができなかったがゆえにもたらされた堂々たる産物だ。

アルマと出逢い、結婚へと一直線に突き進んだ1901年から02年にかけ、マーラーは交響曲第5番を創作した。この作品は、長大で重い第3楽章スケルツォを中心にしたシンメトリー構成をもつ。一方、アルマの、ワルター・グロピウスとの不倫に気づいた1910年夏に書き始められたのが交響曲第10番であり、これはマーラーの死により完成には至らなかったが、後年のデリック・クックをはじめとする学者の尽力により、いくつかの補筆版が完成をみた代物で、その構成も同じくシンメトリーである。しかしながら、こちらの方は「鏡」となる第3楽章プルガトリオの規模が極めて小さいというのが特長。

あえて言うなら、交響曲第5番は中心(鏡)が拡大された凸的性質の産物で、一方の交響曲第10番は中心(鏡)が縮小された凹的性質の産物だといえまいか(少々無理がある?・・・笑)。もちろん作曲者当人にそんな意識はなかったが、アルマに恋い焦がれ、しかも高圧的な父性によって彼女を支配しようとした「陽の性質」が刷り込まれた作品が第5番であり、そして、彼女に裏切られ、支配欲の裏側にある依存性と劣等感が露呈した(「陰の性質」をもつ)作品が第10番と解釈することも可能なのだ。
幸か不幸か第10番は完成されなかった。もしも仮に完成されていたとしたら、あまりに痛々しい音楽として僕たちの前に現出していたのかも。その意味では、本人の手で完成されなくて良かった・・・。

ところで、金子建志氏はデリック・クック補筆完成版について次のように語る。

まず第一に指摘しておくべきなのは、基本的に音楽学的な視座から作られている版であるという点だ。より詳しく言うなら「マーラーがどの段階まで楽譜資料として残しているか」を可能な限りオープンな形で示した上でスコア化したということが、重要なポイントになっているのだ。そうしたことを踏まえた上で「マーラーがどんな曲を作ろうとしていたか」をスコアの形で提示した版ということになろう。
金子建志著「こだわり派のための名曲徹底分析 マーラーの交響曲・2」P135-136

あくまで遠慮がちに進めたクックの仕事ぶりは賞賛に値する。マーラーの残した素材を可能な限り壊さず使い、自身の想像をできるだけ挿入せず、マーラー風の音楽を、いや、最晩年のマーラーの「思考」をとにかく音という形で残そうとした、その努力に拍手だ。そして、あえて楽譜に忠実にでなく、指揮者それぞれに解釈を委ね、細部の変更を大いに薦めたこともクックの先見の明。このことだけでもアルマが初演の放送録音を聴き、一旦禁止した再演をただちに認めたことがよくわかる気がする。

ダニエル・ハーディングがウィーン・フィルハーモニーと録音した第10番がことのほか素晴らしい。何という純度の高い透明感!

マーラー:交響曲第10番嬰ヘ長調(デリック・クック校訂版第3稿第2版)
ダニエル・ハーディング指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(2007.10.23-27録音)

聖俗入り乱れる、あまりに人間的なマーラーの作品という一般的な概念をことごとく翻す、どの瞬間もただただ美しい第10番・・・。支離滅裂さは見られず、第2楽章スケルツォ&第4楽章スケルツォでさえ決して諧謔的でなく、そこはかとない「美」に満ちる。終楽章冒頭の大太鼓の音やテューバによる主題提示にも不気味さはなく、大いなる愛が横たわる。
全編を通じ作曲者も指揮者も、あるいはオーケストラ奏者さえも消え失せ、一切の人格を感じさせない「無色透明の音楽」のみがひたすら鳴り続けるのだ・・・。

 

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2 COMMENTS

“スケルツォ倶楽部”発起人

二つのシンフォニーの絶妙な位置関係 - 交響曲第5番を 「 中心(鏡)が拡大された凸的性質 」、対して 第10番を 「中心(鏡)が縮小された凹的性質 」と喝破した 岡本先生の視点に 讃嘆 ! 大拍手。
初めてウィーン・フィルに マーラー第10 (復元 全曲版 )を演奏させてしまった、若きハーディングのディスク (DG )を、あらためて聴き直してみたくなりました。

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岡本 浩和

>“スケルツォ倶楽部”発起人様
ほとんど幼稚な空想の類ですが、クラシック音楽のあらゆる時代の「謎」をいろいろと考えるのは本当に面白いものですね。
ハーディングの10番は実に素晴らしい出来だと僕は思います。

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