マゼール&ウィーン・フィルのマーラー交響曲第4番を聴いて思ふ

mahler_4_maazel_vpoテンポの緩急の妙味、ロマンティックに粘る旋律・・・。
驚いた。解釈がやや前時代的ではあるものの、これぞマーラーだと最初の数秒で直感した。
僕がこれまでまったく無視していた録音。ロリン・マゼールがウィーン・フィルと録音した全集から、キャスリーン・バトルが独唱を受け持った交響曲第4番。おそらく僕はマゼールという指揮者を誤解していたところがある。時にとんでもない凄演があるものの基本的にムラのある人で、内容はもっと即物的で、無機的で・・・などなど。どうしてそういうイメージがついているのか、その理由はわからないが、とにかく先入観が吹っ飛んだほどの名演奏。
至る箇所での表現が、溜めて、溜めて、とことん溜めて・・・、そして一気に解放・・・というニュアンス。その意味ではメンゲルベルク以上に浪漫的。実に美しい。

真夏にマーラーはくどい。が、しかし、マゼール追悼はいまだ終わらず。先日亡くなられたのを耳にして、すぐさま廉価になった全集を手に入れたものの、やっぱりしばらく放っておいた。とはいえ、第1番や第4番ならと試しに鳴らしてみたところ・・・。

第3楽章の「恍惚」に痺れた。何という優しい祈り、何という色気のある変奏曲・・・。例えば、第3変奏におけるティンパニの突然の怒号、しかもあまりに有機的な響きに包まれたこれほどの炸裂を他の演奏では僕は聴いたことがなかった。そう、ここにあるのは単なる「安寧」ではない。いかにも「平安」を装いながらマーラーの内側に厳然とある「不安」が喚起される。

マーラー:交響曲第4番ト長調
キャスリーン・バトル(ソプラノ)
ロリン・マゼール指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

という次第で、依然として僕は半々、第4の世界に生きているのだ。―これは僕のその他の交響曲とまったく違ったものだ。だが、そうでなくてはならないのだ。僕には同じ状態を繰り返すのはできない相談だ―そして人生が先へ進むにつれて、新しい作品ごとに新たな軌道を測量して踏破するのだ。だからこそはじめはいつも仕事に入っていくのがかくも難しいのだ。それまで身に着けた常套の手練手管は、役に立ってくれない。新たにもう一度、新しいもののために学びなおさなければならないのだ。かくして永遠の駆け出しというわけさ!以前はそれが苛立ちの元で、自分自身に不信を抱いたものだ。しかしひとたびわかってみると、それこそ僕の作品の真実性と永続性の証となったのだ。
1900年8月18日付、ニーナ・シュピーグラー宛
ヘルタ・ブラウコップフ著・須永恒雄訳「マーラー書簡集」P261

マーラーの創造の源泉は「不安」だ。その「不安」を原動力にして、彼はいつも果敢に挑戦した。そして、相手はあくまでも過去の自分自身なのである。

バトル独唱による終楽章の「天国の歌」の何という美しさ!!!
全盛期のキャスリーン・バトルの歌はとにもかくにも唯一無二。特に第4部の、あまりに静謐な音の狭間から浮かび上がるように聴こえるソプラノはまさに天使の歌だ。

地上には天上の音楽と比較できるものは何もなくて
1万1千人もの乙女たちが
恐れも知らずに踊りまわり、
聖ウルズラ様さえ微笑んでいらっしゃる。
地上には天上の音楽と比較できるものは何もなくて
チェチリアとその親族たちが
すばらしい音楽隊になる!
天使たちの歌声が
気持ちをほぐし、朗(ほが)らかにさせ
すべてが喜びのために目覚めているのだ。

マーラーは、内なる「不安」を消し止める方法は「天上の喜び」しかないと断言するかのようだ。それはすなわち「死」ということだろう・・・。
とすると、彼は生涯「死」を恐れながら、どこかでそれを常に希求したことになる。彼の作品の随所にみられるアンバランスは、この矛盾によるものなのだろうか。
ただし、第4交響曲に関しては、僕は一切の「支離滅裂さ」を昔から感じない。完成された作品中最高傑作は第4番だと思う。

 


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