ゲルギエフ&マリインスキー劇場管のショスタコーヴィチ(新盤)を聴いて思ふ

shostakovich_4-6_gergiev_mariinsky太陽が燦々と照りつける中、突然激しい雨が降る。局所的集中豪雨。大自然の「計らい」は残念ながら人には見えない。
音楽も一種「自然」だ。おそらく作曲家自身も意図しない「何か」が働いているのだろう。よって、歴史的背景やその人の性格性質を徹底的に読み込んだとしても、僕たち凡人には決して見ることのできない「謎」がある。

お盆中は思いがけず20世紀の音楽作品を聴いていた。
ここ数十年の間に生み出された数多の傑作群。よくもまぁこんな音楽作品が書けるものだと感心した。

ショスタコーヴィチの交響曲第5番ニ短調作品47。
ゲルギエフの解釈は以前に増して中庸になり、しかも瞬間の爆発力に長ける。年輪を重ねたせいなのか、粘着質で浪漫的な特異な表現が幾分後退し、「純音楽的」境地を体現する。
旧盤に比してあまりにあっさりと開始される冒頭から、楽曲への想いを込めながらも冷静さを失わず、あくまでクールに表現しようとする指揮者の強い意志が伺える。
第3楽章ラルゴの「悲壮感」と音響の「透明感」は随一。
終楽章アレグロ・ノン・トロッポこそゲルギエフの真骨頂であり、解決だ。

ショスタコーヴィチ:
・交響曲第4番ハ短調作品43(2013.6.24-27録音)
・交響曲第5番ニ短調作品47(2014.6.5, 9, 14Live)
・交響曲第6番ロ短調作品54(2013.6.21, 23, 26Live)
ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー歌劇場管弦楽団

しかし何より第6番ロ短調作品54こそ今回の録音の白眉。戦争突入前夜の、悲痛な心情を表現する重厚なラルゴ楽章に、後の勝利を予知するが如くのアレグロ楽章とプレスト楽章が圧巻の対比を示す。ここにこそショスタコーヴィチの(無意識の)計算があり、再現者ゲルギエフの類稀なる思惑があるのである。この期に及んでゲルギエフはようやくショスタコーヴィチと同化する・・・。
例えば、第1楽章5分過ぎのトランペットの悲劇的な阿鼻叫喚に、ゲルギエフのこの作品に対しての「愛情」を痛感する。後半部の木管群の調べの静けさに身震いし、コーダのクラリネットの悠久の響きにもあまりに人間的な感情の類を見出すのだ。
第2楽章の浮ついた歓喜はもちろんショスタコーヴィチの皮肉であろうが、しかし現実は確かにそこ(歓喜)に導かれる。
さらに第3楽章の勢いある節回しに、いかにもショスタコーヴィチらしい「天才」を見る。ゲルギエフはあくまで冷静にドライブする。コーダの強烈なアッチェレランドに一定のブレーキをかけ、熱くなり過ぎず突進する様にこの人の素晴らしさを僕は見出だすのである。
あまりに主観的でありながらあまりに客観的なショスタコーヴィチに僕はひれ伏す。
これらの音楽に余計な解釈は不要と納得した。
何故本来ソナタ形式であるべき楽章が欠如しているのか?
そんなことは知ったことではない・・・。
ただ、作曲者のインスピレーションに降りてこなかったんだ。それであるがゆえの「真実」があるということ。
しかしそのことは、僕たち凡人にはやっぱり「見えない」。

何という夜更け・・・。
最高傑作第4番ハ短調に関してはまた別の機会に言及しよう・・・。

 

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