アルゲリッチ&アバド指揮マーラー室内管のベートーヴェン協奏曲第3番(2004.2Live)を聴いて思ふ

beethoven_2_3_argerich_abbado385明日の夜、つまり2004年2月20日には、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を演奏することになっている。彼女は過去にこの曲を演奏会で一度しか弾いたことがない。惨めな記憶だ。今回、クラウディオ・アバドがどんな手で彼女を説得したかは神のみぞ知る。アバドへの信頼は厚い。長年にわたって二人は音楽を分かちあってきた。50年という歳月だ。まさに永遠!この協奏曲は彼女を不安にさせる。この曲を愛している。だが、圧倒されてしまうのだ。「わたしに向いた曲ではないわ」と昔から言っていたが、ようやく、冒険心がためらいに打ち勝った。出だしを弾いてみて顔をしかめる。外国語で話しているみたい。ピアノが協力を拒んでいる。楽器からの助力は期待できそうにない。熱いコーヒーをひとくち飲んだ。長い夜となるだろう。悲劇的な思いが押しよせてくる。
オリヴィエ・ベラミー著/藤本優子訳「マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法」(音楽之友社)P6-7

自由奔放なマルタ・アルゲリッチは見方を変えると実に悲観的だ。
彼女が演奏するとなると、どんな音楽でも最高のものになるはずなのに、本人はいつも不安を抱える。少しでも納得いかないと不安に押し潰され、直前であっても公演そのものをキャンセルしてしまう。
実は精神的なその不安定さの反映こそ、彼女の音楽の魅力なのである。

それは、彼女の幼年時代の師であったヴィンチェンツォ・スカラムッツァからの影響による。
人の可能性を引き出すことが教師の役割だとするなら、教師は生徒が自ら考え、行動できるよう示唆できなければ二流だ。スカラムッツァの方法は実に驚異的。
本人はそういう意図をもって生徒に接していたのかもしれないし、まったく意識せずただ感情の赴くままに教鞭をとっていたのかもしれない。それについては正確にはわからないが、アルゲリッチの回想によるとやっぱり彼は「いい教師」だった。

機嫌がどうであれ、スカラムッツァが矛盾に満ちた態度で生徒を振りまわし、それによって否が応でもマルタの意識範囲は押し広げられていく。このパッセージは手首を高くして弾けと言われ、次の日は正反対のことをさせられる。言われたことを何も考えずにそのまま実行すると、スカラムッツァの激烈な怒りに火がつく。「先生はきっと、ああすることで、弟子たちがすべての可能性を自分で感じとり、それを試してみて、いざ演奏するときに最上の決断をくだせるようにさせたかったのでしょう。まえもって決めておくのではなく」とマルタが示唆する。「弟子本人に努力させようとした。先生自身もひたむきだった。いい教師ってそういうものよ、たぶん」
~同上書P33-34

こういう教師の下で育ったマルタ・アルゲリッチが、奔放かつ天才的センスと技巧を与えられたのも頷ける。しかし一方で、スカラムッツァの激変する感情の奴隷となったことで彼女の内側の不安定さが作り出されたのも間違いない事実。

それにしても、マルタを不安にさせたベートーヴェンのハ短調協奏曲は真に美しい。暗鬱でデモーニッシュな響きと、明朗快活で天使のような音色が入り交じり、明滅する。

ベートーヴェン:
・ピアノ協奏曲第3番ハ短調作品37(2004.2Live)
・ピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品19(2000.2Live)
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
クラウディオ・アバド指揮マーラー室内管弦楽団

マルタが相当の信頼を寄せるだけある。何よりアバドの指揮が素晴らしい。第1楽章アレグロ・コン・ブリオ冒頭から確信に満ちた、それでいて純白な音楽が奏でられるのである。おそらく大病の後のアバドはすべてが吹っ切れたのか、誰のどんな作品においても透明感を獲得しており、そのことはこのベートーヴェンにおいても明らか。
そうして、マルタのピアノ独奏が入ってからは、彼女のピアノに寄り添うように決して自己主張し過ぎず、黒子となってマルタ・アルゲリッチの音楽を最大限にサポートするのである。ちなみに、ベートーヴェン作のカデンツァは、モーツァルトのような可憐な響きと、ベートーヴェンの堂々たる音調をあわせもつ美しい演奏。
また、第2楽章ラルゴにおける静謐なピアノと優しいオーケストラの対話に心が震える。
嗚呼、何という・・・。

 

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