何事も結果は大事だが、プロセスはもっと重要だ。
作曲の過程を知ることによって、作曲家の頭の中が克明に見える。何よりインスピレーションのまま書き下ろされているいわゆる「初稿」の荒々しさ、新鮮さはどんな作品においても群を抜く。例えば、楽想が降りてきて、それをそのままスコア化できたのはモーツァルトくらいなのだろうか・・・。後世で、モーツァルトの生まれ変わりと称された神童は多かれど、実際にそこまで長けていた人がどれだけいたことか・・・。
フェリックス・メンデルスゾーンの晩年の超有名作であるホ短調のヴァイオリン協奏曲。曲がりなりにもクラシック音楽を愛好する人々はおそらく誰でも青春時代のとある一コマをこの作品に捧げたのではなかろうかと思われるほど人口に膾炙した、そして仮に入門者であっても必ずどこかで耳にしたことのあるであろうあの名旋律を有する音楽を、さらにはすべての楽章が見事に一体となったあの傑作を生みだした天才が、推敲を重ね、珍しく何年もの年月をかけてようやく世に問うた作品の、最初の稿が悪かろうはずがない。どこをとっても荒々しく、しかしその分洗練度は足りず、実に面白いのである。
第1楽章再現部直前のカデンツァの、どちらかというと行き当たりばったりの、逆に言うと即興性満点の音楽が明らかに決定稿とは別のもので、興味深い。
初稿と決定稿との間には120ヶ所ほどの違いが見られるのだと。何と120ヶ所、である・・・。
メンデルスゾーン:
・ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64(1844年初稿版)
・八重奏曲変ホ長調作品20(1832年改訂版)
・3つの歌曲~「魔女の歌」、「ズライカ」、「歌の翼に」(ヴァイオリン&ピアノ編曲版)
ダニエル・ホープ(ヴァイオリン)
セバスティアン・クナウアー(ピアノ)
トーマス・ヘンゲルブロック指揮ヨーロッパ室内管弦楽団(2007.6録音)
第1楽章カデンツァの後に主題が反復されるのは数少ない音楽的瞬間であり、それがあれほどの成功をもたらし、完璧な連環を作り出している。旋律が盛り上がっていくあの最後のところで、ヴァイオリンがあまりにも優雅にトゥッティ(総奏)を導くので人はそっと触れられるような満足を覚えるのである。微妙なうねりがオーケストラのクライマックスを告げる・・・。
~ミシェル・シリ著「燃える茨」日記
実に的確な表現。
音楽作品は、後々に及ぶ推敲を繰り返すことによってより洗練され、美しくなる。しかし、そのことが新鮮さを失わないという補償にはならない。どんなに稚拙であろうと、改訂を施した、つまり後付けの要素に溢れる音楽は「最初のもの」には負ける。なぜなら音楽とは時間の芸術であり、インスピレーションの芸術だから。やり直しは利かないのである。
ところで、さくらカレッジ第4期第10回でマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」を観た。サントゥッツァこそこのオペラの主役だ。信仰心篤く、謙虚で祈りに満ちる女性だが、一方で、嫉妬や独占欲に溢れた醜い側面を持つ。しかしながら、これこそ「人間」なのである。
「間奏曲」をバックにしての、復活祭の日の礼拝中の教会の前でのマリア像へ跪く姿と、大いなる哀しみとわずかな希望に溢れる表情に、僕は人間の内なる「矛盾」を発見した。
人間はエゴイスティックだ。しかし、エゴイスティックであるからこそ人間なんだ。
メンデルスゾーンの協奏曲(初稿)を聴いてサントゥッツァがオーバーラップする。
「八重奏曲」の若々しさにはファニーの影がちらつく。
「歌の翼に」の優しく可憐な旋律にもファニーの想いが横たわる。
クッファーバーグが言うように、「知的にも情緒的にも、ファニーとフェリックス、二人は一卵性双生児」だったんだ。
ダニエル・ホープのヴァイオリンがうなる。それに引き摺られるかの如くオーケストラも黙ってはいない。決定稿では聴こえない金管群の音や打楽器の音が随所に聴かれる。
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メンデルスゾーンは、自ら納得するまで推敲を重ねてきましたし、何回か改作もありました。周囲がこれでよいと思っても、何回も改訂、改作を進めました。そのため、未完成で終わったものの中には、補足などをすれば完全な作品として通用したものも少なくありません。そんな中で、新しい作品が出てくる可能性もあります。
>畑山千恵子様
新しい作品がもし出るならそれほど楽しみはありません。
ありがとうございます。