時間、時間そのものを純粋に時間として物語ることができるであろうか。いや、そういうことはとうてい不可能だ。それは愚かな企てというべきであろう。「時は流れ、時はすぎ、時は移る」というふうに話しつづけていったところで―たといそれが物語だとしても、常識はそれを物語と呼びはしないであろう。それは、気でも狂ったように、同じ音、同じ和音を一時間も鳴らしつづける、そしてそれを―音楽だというようなものである。なぜなら物語は、時間を充たす、つまり時間を「きちんと埋め」、時間を「区切り」、その時間にはいつも「何かがあり」、「何かが起こっている」ようにするという点で、音楽に似ているからである―。
~トーマス・マン/高橋義孝訳「魔の山・下巻」(新潮文庫)P401
音楽とはそれこそ虚構だ。
僕たちが今こうして聴いている音楽もすべて創造者の意図をもって作られたもの。そして、その幻に僕たちは心動かされ、欣喜雀躍する。
例えば、かの有名な、フルトヴェングラーが戦後バイロイト音楽祭の再開を祝して演奏したベートーヴェンの第9番の演奏も、ウォルター・レッグらプロデューサーの企図をもってある意味歪められて創造されたつくりものであった(であろう?)ことが先年わかった。新たにリリースされたその演奏は、驚くべきことに細部にわたり僕たちが知っていた「バイロイトの第9」とは異なるものだった。
しかし、だからと言って僕には失望はなかった。
それが当日の実況そのものか、あるいは編集作業が施されたものなのか、そんなことはどうでも良いこと。その事実を知っても、かの音盤を聴いて感動することには違いないゆえ。それほどに従来の録音のもつ力は大きく、これこそ文字通り「レコード芸術」といえまいか。芸術とは虚構なり。
・ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」
エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ)
エリーザベト・ヘンゲン(コントラルト)
ハンス・ホップ(テノール)
オットー・エーデルマン(バス)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管弦楽団&合唱団(1951.7.29Live)
崇高な精神美の第3楽章アダージョ・モルト・エ・カンタービレ、そして情念の終楽章プレスト―アレグロ。もはや詳細に僕が何かを語る必要のない屈指の名演奏。
時間とともに消えゆく音楽は幻だ。ましてや「音の缶詰」たるレコードならなおさら。
僕たちは幻に感動し、涙する。
従来のバイロイト盤の価値が揺らぐことはおそらく今後もないだろう。
互いに抱き合え、諸人よ!
全世界の接吻を受けよ!
兄弟よ、星の上の世界には
愛する父がおわします。
(訳:渡辺護)
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>それが当日の実況そのものか、あるいは編集作業が施されたものなのか、そんなことはどうでも良いこと。
しかし、何でそんなことが未だに判らないんでしょうね。数ある20世紀の謎のひとつですね。
いや、もはや神話の域ということですか(笑)。
>雅之様
>もはや神話の域ということですか
そういうことにしておきましょう。(笑)
[…] ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの激性を凌ぐ、まさにヘルマン・シェルヘンの偉大な芸術!! […]
[…] よくよく考えてみると本番の演奏直前に指揮者がコンサートマスターに話しかけるというのもおかしな話で、その点もEMI盤がリアル・ライヴ音源なのかどうか疑問を呈するところというのが一般的見解。予備マスターのデジタルコピーを原盤としたいわゆる「オタケン盤」(TKC-309)は、この足音入りのものだが、冒頭指揮者の登場シーンはやっぱり不自然極まりない。ただ、新発見マスターを使用してのCDの音質は抜群のもので、少なくとも僕が所持するCDの最初期国内盤(CC35-3165)に比して音がより鮮明で、低音もしっかりして聴き応えがある。 […]