バードの「グラドゥアリア~聖母マリアのミサ」を聴いて思ふ

byrd_gradualia_marian_masses_turner皆既月食なのだと。
宇宙の神秘のひとつだろう、人間は月の影響を受ける。いや、受けるどころか見事に左右される。こういう日は、感情に流されないこと。あるいは、頭を使い過ぎないことだ。
魂の声を聴き、従い、流れに沿ってただただ「在る」のみ。

時代を上るにつれ音楽には「感情」が宿るようになった。たとえ、作曲家が苦心して自然美を描こうと、あくまでそれは彼(あるいは彼女)の主観による心象だ。それゆえに、ロマン派の作品はとっつきやすい。世俗作品はもちろんのこと、宗教音楽さえもが大袈裟な管弦楽法に則り、「感情」の赴くままに音符を操り、人々の感情に直接に訴える。そして、ひとたびツボを押さえられれば、人々はその音楽に熱くなり、周囲はみるみる歓喜の坩堝と化す(ただし、そういうものは一方で冷めやすいものでもある)。

時計の針を戻してみよう。
イングランド・エリザベス朝時代の最大の作曲家のひとりであるウィリアム・バードの音楽は、16世紀(あるいは17世紀初頭)のものであるにもかかわらず、まるで19世紀ロマン派の音楽のように、人々の感性にストレートに語りかける。音楽のつくりは確かにシンプルで、そして神を意識した敬虔な音調に溢れる作品群だ。だから「感情に訴えかけるものであるのは当然だ」という聴者もいよう。ただし、ここで僕が言う「感性に訴えかける」というのは、より正確には「魂、霊性に訴えかける」ということ。仮にバードが、いつの時代に、どんな人で、どんな背景のもとに音楽を生み出したのかを知らなくとも、音楽そのものの存在感が真に大きい。その意味では、ほぼ同時代のウィリアム・シェイクスピアの普遍性に極めて近い(ちなみに、今年はシェイクスピア生誕450年の記念すべき年)。
ハムレットの言葉を思い出す。

物事には良いも悪いもない、それはただ思考が作り出した産物に過ぎない。

僕たちは多分に作曲家の「名前」で音楽を聴く。
あるいは、その作曲家の「プロフィール」に左右され、音楽を聴く(今年の初めに事件になった佐村河内氏のゴーストライター問題などその最たる例)。
一度、思い込みや記憶や、先入観を捨て、作曲者名を伏せてこの音楽を聴いてみるがよい。
ポリフォニーで書かれた神を賛美する音楽のどの瞬間をとってみても哀しく切ない。ただ単に「ミサのために書かれた音楽」であることを差し引いたとしても相変わらず哀しいのだ。

バード:グラドゥアリア~聖母マリアのミサ
デボラ・ロバーツ(ソプラノ)
デイヴィッド・コーディア(カウンターテナー)
マイケル・チャンス(カウンターテナー)
ジョン・マーク・エインズリー(テノール)
マイケル・ジョージ(バス)
ガヴィン・ターナー指揮ウィリアム・バード合唱団(1990.2.27-3.1録音)

主を讃える「ハレルヤ」という言葉にすら得も言われぬ哀感が沁み渡る。ウィリアム・バードの内側に在るのは、やっぱり信仰のズレから生じる落胆と哀しみだ。
あまりに美しいア・カペラ合唱にそんなことを思う。

 

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2 COMMENTS

畑山千恵子

バードはカトリック信者だったとはいえ、音楽好きのエリザベス1世のもと、リュート・ソング、ヴァージナル(チェンバロ、クラヴィコード、ピアノの前身)の作品を残しました。ヴァージナルのための作品は、グレン・グールドのものがあります。グールドは、バード、ギボンズの作品をリサイタルでよく取り上げていました。

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