モントゥー&ウィーン・フィルのハイドン「驚愕」「時計」を聴いて思ふ

haydn_94_101_monteux_vpo音楽というのは、聴く者に喜びを与えるものであり、その一方、創作者の解放の手段でもある。良い演奏を聴くと、作曲者の裏側の心理までが読み取れる気がして実に興味深い。今宵も空想。

喜多尾道冬氏が著した「シューベルト」の中に、次のような言葉がある。音楽の形式を理解する上で、中でも基本の「ソナタ形式」を理解するのにとてもわかりやすい。

音楽による新しい時代の革命的な思想表現は、ソナタ形式という形を借りて、ハイドンにはじまり、モーツァルト、ベートーヴェンに受け継がれ、それはいわゆるウィーン古典主義音楽の基本理念となった。
P152

またこの図式は小説にも当てはまる。たとえばヒーロー(第1主題)とヒロイン(第2主題)が出会い、さまざまな葛藤のなかで愛し合ったり憎み合ったりしながら、たがいに結ばれるか、あるいは決裂するか、紆余曲折の展開を見せて、最後に大団円に達して終わる。小説の起承転結の過程が、音楽ではソナタ形式となる。
P153

市民社会の発展のなかで女性解放が進み、これまでの貴族と市民の対立だけでなく、抑圧されていた女性が自己実現を求めるようになり、男女の対立が顕在化しはじめていたからである。
ハイドンは、時代がそのようなさまざまな対立をはらんで胎動しはじめているのを敏感に感じとり、早くも対立解消のための見取り図を描きはじめていた。しかしその予感さえないものは、いきなりその処方を示されても戸惑うばかりだろう。聡明な彼は啓蒙時代にふさわしく、近づきつつある対立の不気味な地殻変動をまず聴き手にインプットする必要を感じた。
そのために彼は、いきなりソナタ形式で開始することを避け、第1楽章の冒頭に序奏を置く。
P153-154

なるほど、鋭い。あの、大抵がゆっくりしたテンポの優美な「序奏」が生れた理由が時代背景にあろうとは・・・。

もうひとつ僕の妄想。ハイドンの敏感な感受性は時代を読むだけにとどまらず、主人の心を読むことにも長けていた。
そう、王侯貴族がパトロンであったあの時代において、ハイドンの主人も当然一般市民ではなかった(エステルハージ家)。つまり、貴族との対立から市民が台頭してゆくという未来図をなるべく主に悟らせないように、もっと言うなら気を逸らす意味合いからあえて序奏を置いたのでは・・・?それはいわばハイドンの、主人と国家への忠誠の証のようなものということである(1809年に亡くなる直前、ナポレオン軍のウィーン包囲を砲撃の音を聴きながら、自身の「皇帝讃歌」の旋律をピアノで繰り返し弾いていたというエピソードもそういう想像の膨張を助長する)。
同時に、いわゆる奉公での無意識の(目に見えない)鬱積の解放というものまで見える。おそらくハイドンはもっと自由に、自身の創作意欲の赴くままに音楽を作りたかった。しかし、侯に仕えている立場である以上、当然そのニーズを汲んで相応しい音楽を作曲しなければならなかった。そこには大変な忍耐と我慢があったはず。
特に、1790年にエステルハージ家での職を解かれ、悠々とロンドン旅行に旅立った以降のハイドンの傑作たちには、その解放が極めて如実に感じられることから、あながち無謀な想像でもないように思うのだが・・・。

ピエール・モントゥーがウィーン・フィルと録音した2つの交響曲を聴いてそんなことを想った。何と素晴らしい演奏・・・。

ハイドン:
・交響曲第94番ト長調Hob.I:94「驚愕」(1959.4.13&15録音)
・交響曲第101番ニ長調Hob.I:101「時計」(1959.4.13&15録音)
シューベルト:劇音楽「ロザムンデ」D797から(1957.11.25-27録音)
・序曲(劇音楽「魔法の竪琴」D644)
・間奏曲第3番
・バレエ音楽第1番
・バレエ音楽第2番
ピエール・モントゥー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

「驚愕」と呼ばれるト長調交響曲の第1楽章は、優美な序奏があるお蔭で主部ヴィヴァーチェ・アッサイの解放が一層意味あるものに昇華される。そもそもその点からモントゥーの独壇場。冒頭からハイドンの魂が乗り移るかのような心に突き刺さる音楽が響くのである。
第2楽章の突然のフォルテによる一撃も、一般的にいわれるように、眠っている聴衆を驚かそうとしてハイドンが書いたものというより、むしろ彼自身が自身の抑圧を解放することを前提に書き上げたもののように思えてならない。ここでもモントゥーの柔らかな棒が聴く者に解放からの愉悦と幸福感を示唆する。何というセンスあふれる音楽!!
そして、第101番ニ長調「時計」についても、第1楽章序奏後のプレスト部から典雅と愉悦の極み。続く第2楽章アンダンテの、あの有名な旋律の何とも言えぬ愛らしさ・・・。さらに、第3楽章メヌエットが単なる舞曲でなく、モーツァルトの「ジュピター」交響曲を思わせる堂々たる風貌を持つ様と、フィナーレの壮大なクライマックスに向けて解放されゆく様に言葉も出ない。

至極の名盤である。

 

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1 COMMENT

畑山千恵子

ハイドンは、モーツァルトをイギリス旅行に誘いましたが、モーツァルトは断りました。1790年、モーツァルトがイギリスへ出発するハイドンを見送る際、モーツアルトはこれが最後の別れだろうと涙したそうです。そして、1791年12月5日、モーツァルトは35歳でこの世を去ることとなりました。

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