ビーチャム卿のベルリオーズ「死者のための大ミサ曲」(1959.12.13Live)を聴いて思ふ

berlioz_grande_messe_des_morts_beecham221生涯(キリスト教への)信仰を持たなかったといわれるエクトル・ベルリオーズは、自身の表現の道具として宗教というものをとてもうまく利用したのでは?ミサ曲やテ・デウムや、彼の宗教的作品のいずれも、後にジュゼッペ・ヴェルディが「レクイエム」で披露した華美で大袈裟な音調の嚆矢となるような音楽に満ちる。そこには敬虔な信仰よりも自身の才能を飾り立てようとする美しさだけが在る。それこそがベルリオーズのベルリオーズたる所以。

昨日のマキシム・ヴェンゲーロフの「幻想交響曲」は、実に楽天的な解釈の、標題性よりは音楽そのものの純粋さを追究した、壮大で素晴らしいものだった。19世紀前半というあの時代に、ベートーヴェンが亡くなってまだ3年ほどというあの時代に、あんなに能天気でありながら想像を絶するほどの巨大さと深遠さを持った音楽を書き上げたベルリオーズは真の天才であった。しかしその一方であれは、神性などというものは微塵も持たない、実に俗っぽいセンスに溢れたもので、それこそ自身の儚い恋の相手であったハリエット・スミッソンをモデルにした自分勝手な「幻想」「幻影」がモチーフとなった超現実(四次元)的音楽作品でもあった。

「幻想交響曲」から7年後、1837年にフランス政府からの委嘱により創作された「レクイエム」にも、死者を弔う信心深さなどを発見することはできない。あくまで自身を大袈裟に売り込もうとする作曲者の実にエゴイスティックな魂が「そこのけ、そこのけ」とまるで死者を翻弄し、嘲笑する。

ちなみに、決して僕はそれをネガティブな意味で言っているのではない。
それこそがベルリオーズの音楽の個性であり、彼自身の本懐なのだということ。

おそらく彼には、リヒャルト・ワーグナー同様、かなりの誇大妄想癖があり、こと音楽に関しては自分が世界の支配者であるとさえ思っていたきらいがあるのだろう。空間と時間を支配するのは自分だと言わんばかりの(演奏の際には、その空間の大きさによって楽器の数の増減を図るべきと指定される)世俗的「レクイエム」。
ビーチャム卿のロイヤル・アルバート・ホールでの実況録音にて。

・ベルリオーズ:死者のための大ミサ曲(レクイエム)
リチャード・ルイス(テノール)
サー・トーマス・ビーチャム指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団&合唱団(1959.12.13Live)

例えば、4組のバンダを四方に配置するよう指定されている第2曲「ディエス・イレ(怒りの日)」の音響効果は、録音では体感し得ない。
4組のバンダ、8対のティンパニ、そして10対のシンバルが導入される第6曲「ラクリモサ(涙の日)」についても同じく。
あるいは僕は、男性四部合唱によって歌われる第8曲「オスティアス(賛美のいけにえ)」の静謐で崇高な美しさに思わず涙する。その後の第9曲「サンクトゥス(聖なるかな)において初めて登場するテノール独唱(リチャード・ルイス)についても然り。そして、最後の「ホザンナ」の主題が高らかにうたわれる瞬間の何とも言い難い解放感。

ベルリオーズの「レクイエム」は、音量の増減と音楽の呼吸の機微、それらの要素が見事に体現された傑作であり、ワーグナーやストラヴィンスキーの言う「音楽の視覚的効果」の重要性を訴えかける強烈な音楽の宝庫である。
ここでのビーチャム卿は19世紀浪漫主義の魂を失わない。
オーケストラは濃厚に咆え、壮大な合唱は絶叫あり囁きあり。

なるほどベルリオーズは信仰を持たなかったのではないのかも。
あくまでキリスト教という宗教に対して帰依する心がなかったに過ぎない。
大いなるものへの感謝や、愛、すなわち神々への想いは人一倍あったはず。

 

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