メンゲルベルクのフランク(1940録音)を聴いて思ふ

franck_mengelberg人間はアナログな存在である。感性を零&一で説明することはできない。もちろん思考もだ。

ウィレム・メンゲルベルクの解釈は型にはまったもので、慣れてしまうと機械的であざとい印象を受けるとよく言われるが、おそらくそれでも実演においては聴衆に多大な感動を与えたはずだと、残された音源を聴くたびに思う。弦のポルタメントひとつをとってみても、そのとろけるような濃厚なロマンティシズムがどうにも心を揺さぶる。そう、フレーズとフレーズの一貫性を疎かにすることなく、しかし人々の魂に直接に訴えかける術を彼は自ずと会得していたのである。この、不自然さの中に垣間見る「自然」こそがメンゲルベルクの音楽そのものであり、ここには大いなるエロティシズムがれっきとしてある。

セザール・フランクの交響曲を聴いた。
晩年に行き着いた、作曲家の常套手段であった「循環形式」に基づいたこの傑作は、初演当時の評判は決して優れたものではなかった。重厚であり、また渋く、その上重心の低い、安定感のあるいかにも独墺風の大交響曲の態を表面上は示すが、耳をそばだててその内側に意識を傾けると、洒落たフランス的洗練の極みが手に取るようにわかる。例えば、第2楽章アレグレットのイングリッシュホルンによる調べなど、悲しみの中に在る不思議な明るさがいかにもラテンの響きであると僕には思える。

・フランク:交響曲ニ短調(1940録音)
・ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲(1938録音)
・フランク:プシュケとエロス(1938録音)
・ベルリオーズ:ローマの謝肉祭(1937録音)
ウィレム・メンゲルベルク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

第一楽章に響く弦のうねり、リズムの脈動、何ともエロティックではないか。

ライナーノーツの中で、山崎浩太郎氏がそう書かれているが、このことは他の楽章にも全く通じる。これほど生命力に漲る演奏はない。ちなみに、第3楽章アレグロ・ノン・トロッポは、ベートーヴェンの「暗から明へ」というモットーをなぞるかのように解放的。ここでもメンゲルベルク節は健在。

そして、ドビュッシーの「牧神」に見る、アンニュイな恍惚の響きこそまたメンゲルベルクの真骨頂。なるほどメンゲルベルクの音楽の根底に流れるものは「生きることへの希望」である(しかしそれは裏返せば「執着」ということであり、それがマイナスに働いた時にこの人の音楽は途端に錆びつき、古めかしいものに陥るのである)。

「プシュケとエロス」がいかにも肉感的な響きで美しい。テンポの激烈な揺れと弦の濃厚なポルタメントがこれほど活きる音楽はなかなかない。そして、とても70数年前の録音とは思えない生々しさ・・・。

ベルリオーズに在る躍動は、この独裁的指揮者の有無を言わせぬ「歓喜」であり、手放しの「賞賛」だ。ここにはもはやこの作曲家と同化した独断的な指揮者の姿しかない。しかし、であるがゆえに雄渾で華麗で、いかにもベルリオーズ然として聴き惚れるのである。しかし、そう繰り返し何度も聴くのは辛いのだが・・・。

 

ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。


日記・雑談(50歳代) ブログランキングへ


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む