アルバン・ベルク四重奏団のモーツァルトK.387&K.421(417b)を聴いて思ふ

mozart_quartet_14_15_abq_1987074かれこれ30年近く前だと記憶する。正月の帰省を終え東京に向かう新幹線車中でカセットテープに録音していたモーツァルトのト長調の弦楽四重奏曲を繰り返し聴いていた。あの時も雪の影響で駅は大勢の人でごった返していたし、新幹線の中も大変な人の数だった。

モーツァルトを聴きたくなる時はいつも突然訪れる。
興味深いのは、モーツァルトを聴くと、その作品を頻繁に聴いていた「時」の記憶がまざまざと蘇ること。外の情景と自身の内の心情とが、その音楽と密接につながっているのだから本当に不思議。

音楽は時の芸術である。そのパターンは時のなかにあり、時間ぬきには展開も完結もしない。絵画や建築、彫刻は空間、対象、色彩の関わりについて一つの主張を打ち立てるとはいえ、それらの関係は静的なものである。一方、音楽は生命のようにたえず動いているように見えるので、人の感情の変化をもっと適切に表現する。
アンソニー・ストー著/佐藤由紀・大沢忠雄・黒川孝文訳「音楽する精神―人はなぜ音楽を聴くのか?」(白揚社)P128

なるほど、空間及び時間に対して動的な性質を持っていることこそが、音楽の絶対的本質だということ。であるがゆえにそれは時空の記憶と密接に結び付く。そしてまた、動いているものを静止させて表現しなければならないのだから言葉に記録することが難しい(とはいえ、一流の文学者の言葉はまるで音楽のように流れる)。
先年亡くなられた辻井喬さんが「私のなかのモーツァルト」と題するエッセイの中で次のように書かれていたことを思い出した。

音楽について何か書くこと、語ることに何ほどの意味があるのだろうか。
聴いて感じる、聴いて考える、聴いて思い描くことで充分であり、なおその上にそれについて語ることは、総ての信条の告白、愛の告白と同じように、情緒過多になったり或いは啓蒙的な口調になることによって、読む人を白々しい気分にしてしまうのではないか。ことに、それがモーツァルトのこととなれば尚更である。
「私のモーツァルト」(共同通信社)P232

音楽そのものを言語化して伝える意味は、自己満足でない限りにおいて、より多くの人々への啓蒙活動以外にないだろう。つまり、(音楽ができない人は)それを知らない人、わからないという人たちに理解していただくための一助になればという一心だということ。

僕などが言葉にするのも憚られるので、今日のところはこれ以上御託を並べるのは止すことにする。
そう、あの日あの時聴いていたのは、アルバン・ベルク四重奏団による旧い方の録音。
そして今日は、新しい方の録音(といっても既に四半世紀過ぎるものだが)。

モーツァルト:
・弦楽四重奏曲第14番ト長調K.387
・弦楽四重奏曲第15番ニ短調K.421(417b)
アルバン・ベルク四重奏団(1987.12録音)
ギュンター・ピヒラー(ヴァイオリン)
ゲルハルト・シュルツ(ヴァイオリン)
トマス・カクシュカ(ヴィオラ)
ヴァレンティン・エルベン(チェロ)

研ぎ澄まされた若々しい感性の産物は旧い方だが、新盤は余裕と安定の美しさ。
ちなみに、上記エッセイを辻井さんは次のように締める。

近代が終熄し、近代を支えた社会構造が崩壊しようとしている時、モーツァルトが予感していた不安が美しく人々の心に甦りつつある。この共感を滅びへの共感と読みとることも可能だろう。しかし私は、より深く、彼は人間存在そのものの喜びと不安とを、近代の確立期において、その個性の上に花開かせたのだと思っている。
~同上書P238

巧い!人間存在の喜びと不安とをより深く花開かせたという言に膝を打つ。
愉しい時も、嬉しい時も、そして寂しい時も、哀しい時も、現代の僕たちのあらゆる感情のそばにモーツァルトは在る。

 

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2 COMMENTS

michelangelo

岡本様

今年も又、刺激に満ちたブログ記事を拝読致しました。

辻井喬氏のお言葉「愛の告白と同じように/読む人を白々しい気分にしてしまうのではないか」は、鋭く的を得ており深々と悲しくも頷いてしまいました。又、アンソニー・ストー氏による考察”静的な芸術と動的な芸術クラシック音楽”に関しましても、考えさせられます。

ところで話は全く異なり、指揮者アーノンクール氏はインタビューにて”視覚と聴覚の差”を述べたことがあります。その際「目の錯覚」、と視覚を見下す表現を発信したけですが、これは聴覚を信用しない「空耳」と同様、やや誤解を招くメッセージだと私自身は受け止めました。

影響力のある人間は、負のコメントに対し責任を伴うと思うのです。例えば、ブッシュ元大統領のブロッコリー苦手発言もアメリカでは問題になりました。音楽評論家が公の場で、贔屓の音楽家について明かさないのは流石だと思います。

一読者として貴ブログから、生きるヒントや明日への一歩に繋がるアイデアを楽しみながら読ませて頂いています。実は「人間力」発見日記も、時折拝読しております。短い文章で、人を一瞬に安心させてしまうパワー、恐れ入ります。ちなみに、ダニエル・バレンボイム氏も閃きのある言葉を幾つも残しています。勇気ある音楽家に対し、私のような未熟者は小さくなってしまいます。

「【ニューヨーク1998年10月8日】ベートーヴェンがクレッシェンドからsubito pianoへと記す時、subito pianoの一つ前の音はクレッシェンドの最大の音でなければならないのだ。それを実行するのはかなりの勇気を必要とする//何を演奏するかや、どこで演奏するかではなく、音楽を演奏するという行為における勇気だ。そういう種類の勇気が、ほんとうに深遠な人道上の問題を解決する時に必要とされると僕は思う」

2015年も、岡本様にとって素晴らしきクラシック音楽年になりますように。

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岡本 浩和

>michelangelo様
こんばんは、コメントをありがとうございます。
アーノンクールのインタビューは初めて知りましたが、意外に音楽家で聴覚を優位に置きたがる人は多いかもしれませんね。おっしゃるように、器官そのものに優劣はないですから、少々誤解を与えるものかもしれません。

「人間力発見日記」も読んでいただいているようで大変恐縮です。あれはもう、本当に朝ふと思ったことを気ままに書いているものですから、いい加減な時も多いのですが、何はともあれありがとうございます。
バレンボイムの言葉にも膝を打ちました。

michelangelo様にとっても2015年が素晴らしき年になりますよう。
今後ともよろしくお願いいたします。

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