シノーポリのシューマン「楽園とペリ」を聴いて思ふ

schumann_das_paradies_und_die_peri_sinopoli012ロベルト・シューマンの「楽園とペリ」は、音楽的な意味でまるでベートーヴェンの「フィデリオ」のコピーのようだ。レオノーレ(フィデリオ)の夫への純愛(ひいては人類への博愛)は、そのままクララに求めた彼の「母性」の顕在であり、牢獄に閉じ込められたフロレスタンに、彼は「世間の評価」という枠にとらわれ創造の力をなかなか飛翔させることができなかった自分自身を投影したのではないのか?
あるいは、そこにはメンデルスゾーン的な解放もあり、シューマン自身の内側に辛うじてあった「自己肯定感」すら垣間見える(終曲の「楽園の人々の合唱」には交響曲第2番のフィナーレが木霊する)。

もちろんそこには愛するクララとの結婚生活から生まれた幸福感が反映されているのだろうが、どちらかというとクララに抱いていた劣等感がバネとなり、創作活動が一層活発になった結果として生まれたものだと想像する。挙句はロベルトの精神を蝕んだ「劣等感」と「母という絆の不在」がここでは原動力となっているのだ。

テノール・ソロと四重唱による第13曲のゆるやかな美しさ。

ペリが泣く、その涙によってあたりの空気は
清らかに澄んで見え、大空がほほえむ。
なぜなら、妖精のたぐいが人間のために泣く、
涙には魔法の力があるのだから。
(西野茂雄訳)

これほどに意味深い詩に、あれほどの安寧の音楽を付けられるロベルト・シューマンがあまりに器の小さい男だ知るとがっかりするが、何ともクリティカルな父性がまたこういう作品を生む源につながっているということ。

1846年にヘルテルの提案で制作されたシューマン夫妻の有名な石膏レリーフを作ったのは、この男(彫刻家のエルンスト・リーチェル)である。このときローベルトは、自分が前面にくるよう言い張った。創造する芸術家は再現する芸術家に勝る、というのが彼の言い分である。以前ハイキングに出かけたとき、クララの歩みが速く、彼の前を歩いたという理由でローベルトが機嫌を損ねたことがあった。「夫が妻の二十歩後ろを歩くことは、決して好ましいことではない」。
モニカ・シュテークマン著/玉川裕子訳「クララ・シューマン」P105

シューマン:
・オラトリオ「楽園とペリ」作品50(1994.3録音)
・序曲、スケルツォとフィナーレ作品52(1993.8&10録音)
ジュリア・フォークナー(ソプラノ)
ハイディ・グラント・マーフィー(ソプラノ)
フローレンス・クイヴァー(メゾソプラノ)
エリーザベト・ヴィルケ(メゾソプラノ)
キース・ルイス(テノール)
ロバート・スウェンセン(テノール)
ロバート・ヘイル(バス・バリトン)
ドレスデン国立歌劇場合唱団
ジュゼッペ・シノーポリ指揮ドレスデン国立管弦楽団

「楽園とペリ」は(1843年)12月4日と11日にシューマンの指揮のもとに、ソプラノ歌手リヴィア・フレーゲの好演にも支えられて熱狂的な成功をおさめた。この演奏会はシューマンの指揮者デビューともなり、さらに義父ヴィークとの和解につながった。すでにこの年の2月21日に、クララはドレスデンの父を訪問していたが、いま「楽園とペリ」の成功を伝え聴いたヴィークから和解の手紙が送られ、シューマン一家は晴れてヴィークのもとでクリスマスを過ごすのである。
藤本一子「作曲家◎人と作品 シューマン」(音楽之友社)P81

「楽園とペリ」は、「祈祷室のためのものではなく、心朗らかな人々のためのオラトリオ」として構想されたものだ。であるがゆえなのかどうなのか、人々から熱狂的に迎えられた。
その上興味深いのは、ロベルトの劣等感が原動力となって生み出された作品がそうなった結果もたらしたものが義父との和解であったこと。シューマンが本当の意味で「第一線の作曲家になった」のはこのときだった。

シノーポリの演奏は、理知的過ぎてクールという印象があった。整然としているあまり、心が通わないものに陥りがちな解釈が、ここではプラスに働いている。作品の全容を見通すことがどの瞬間をとっても可能で、しかも切れば血の出るような有機性に満ちる。

四重唱と合唱による第24曲の何とも静謐な美しさ。

おお、心の底からの悔恨の聖なる涙よ、
お前たちのやわらかな償いの流れのなかには
罪人にとって最初の、唯一の
新たな罪のない悦びが宿っている!
(西野茂雄訳)

ドレスデン国立管弦楽団のいぶし銀の渋い音色がまた「心の朗らかさ」を助長するようで素敵。シューマン渾身の傑作をシノーポリが堂々たる威厳のもと再現する名盤。

 

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1 COMMENT

畑山千恵子

これは戦前、東京音楽学校(東京芸術大学)によって行われました。その他、「ばらの巡礼」の日本初演もありました。こうした作品が既に日本で演奏され、聴かれたことは貴重ですね。

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