ラトル&バーミンガム市響の「大地の歌」を聴いて考へる

mahler_erde_rattle_cbso僕たちはどこから来てどこへ行くのか、この永遠の問いをグスタフ・マーラーはおそらく幼少の頃から持ち続けていたのだろうと思われる。

「大地の歌」の第1楽章「大地の哀愁を歌う酒の歌」の原詩は中国唐代の詩人李白の「悲歌行」に基づくものだといわれる。これは実に意味深い内容を示す。

悲来乎
悲来乎
天雖長
地雖久
金玉満堂応不守
富貴百年能幾何
死生一度人皆有
孤猿坐啼墳上月
且須一尽杯中酒

字面を眺めてみて、一見何ともペシミスティックな印象を受けるが、実に肯定的で、ほとんど悟りの境地にある世界が眼前に拡がるよう。宇宙から見れば人生の時間などわずかな点に過ぎず、物質欲に囚われたところであの世には持って行けぬのだから無為だよと。

ちなみに、この交響曲で繰り返し歌われる”Dunkel ist das Leben, ist der Tod”というフレーズは一般的に「生は暗く、死もまた暗い」と翻訳されるが、昔からどうにも違和感があった。原詩に照らし合わせてみて思った。なるほど、”dunkel”は「暗い」という意味より「不可解な、未知の」というニュアンスに近いということだ。ということは、この節自体が人間には見えないものを指し、すなわちそれこそが輪廻転生を仄めかすもので、前述の永遠の問いを解く鍵になると理解できる。

そして、サイモン・ラトルが録音したEMIの国内盤のライナーを見て、もうひとつ疑問が走った。第1楽章の邦訳が「地上の慈悲を詠える酒席の歌」となっているのである。原題の”Jammer”をここでは「哀愁」ではなく「慈悲」と訳しているということ。このニュアンスの違いは真に大きい。手元の独和辞典をひもとくと、「嘆き、悲嘆、同情、哀惜の情、難儀、苦境」などがその意味に当てられているが、どうにも「慈悲」という意味にはほど遠いように思う。仮に「慈悲」というニュアンスがあるならば、マーラーのこの作品は実に肯定的な、人類の未来の平和を予知するかのようなものとして捉えることができるのだが、通常のように「哀愁」ならば、人間の生や仮我の儚さを歌う厭世的なものになる。この題、果たしてどなたが訳されたのか知りたいところ。さらには、”Jammer”という単語に果たして「慈悲」的な意味合いがあるのかどうなのか、それについても。

ワーグナーの再生論の影響を受けたマーラーは、ワーグナー同様晩年に至って「悟り」ということを頭では理解するようになったのかも。この世は幻であり、目に見えないあの世こそ真実なんだと。そして、僕たちは各々のカルマ解消のため修業に生まれ出てきているのだと・・・。

マーラー:交響曲「大地の歌」
ペーター・ザイフェルト(テノール)
トーマス・ハンプソン(バリトン)
サー・サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団(1995.12録音)

偶数楽章にバリトンを起用したことで、この曲のもつ、本来墨絵のような色調、濃淡がニュアンス豊かに奏でられ、ラトルの「先見」と「冒険」がとてもよく理解できる。
以前、同様にバリトンのフィッシャー=ディースカウを抜擢したバーンスタイン盤を採り上げて、「歌詞をあらためて見てみてこの歌を歌うのは男性でなければならぬと」と書いたことを思い出した。僕のその考えはやっぱり変わらない。

 


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