ベートーヴェンの7番目の交響曲に関して、いまだに僕の中で随一を誇るのがフルトヴェングラー&ウィーン・フィルのスタジオ録音盤(1950年)。初めて耳にしたのは東芝EMIのブライトクランクによるアナログ盤だったが、第1楽章冒頭の和音から金縛りに遭うような衝撃を受けたことが懐かしい。爾来、幾度となくリマスターされ、かつ「板起こし」と称して新たなものがリリースされるたびに聴いてきたが、中でもオーパス蔵による復刻盤の充実した中低音の響きに舌を巻き、今ではこの音盤を取り出すことが多い。
宇野功芳さんのいつもながらの宇野節炸裂のライナーノーツに首肯。
こうなると、さすがのぼくも迷う。ウィーン盤の高音には相変わらずピークはあるものの、中低音がどっしりと鳴るので、ほとんど気にならなくなった。フルトヴェングラーも聴衆の居ないスタジオなのに大いに燃えており、この勝負、引き分けか、あるいはわずかにウィーン盤が上か。本当にオーパス蔵は人さわがせだ。
「人さわがせ」というのは少々言い過ぎのきらいもあるが、それにしてもワーグナーが「舞踏の聖化」と名づけたこの音楽のまさに崇高でありながらリズムの饗宴たる響きに身も心も焼き尽くされる。リヒャルト・シュトラウスの回想が興味深い。
また「私は16歳まで古典音楽の中だけで育った」というシュトラウスの表現にもあるよう、彼(父フランツ)は息子を厳格にワーグナーの音楽から遠ざけていたわけだが、これまたリヒャルトの回想によれば、ベートーヴェンの第7交響曲の終楽章ですらフランツは、「メフィスト・リヒャルト・ワーグナーの臭いがする」と嫌っていたという。
~岡田暁生著「作曲家◎人と作品シリーズ リヒャルト・シュトラウス」(音楽之友社)P26-27
ワーグナーは悪魔メフィスト呼ばわりされていたわけだ・・・。
なるほど、第7交響曲が生み出されたちょうど同じ頃、ベートーヴェンはゲーテとの邂逅を果たしているのだが、確かにゲーテがベートーヴェンに持ったといわれるいくつかの印象がそのままこの作品にも反映されている。「メフィスト」という表現もあながち間違ってはいないかも。
ゲーテはこの出会いの晩に妻宛に「あのように集中的で、エネルギッシュで、しかも内省的な芸術家にはかつて会ったことがない」といった内容の称賛と感動の手紙を書いている。
~平野昭著「作曲家◎人と作品シリーズ ベートーヴェン」(音楽之友社)P131
フルトヴェングラーの演奏では、終楽章などまさに集中的かつエネルギッシュで、その上内省的な臭いがプンプンする。
・ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調作品92(1950録音)
・ヨハン・シュトラウスⅡ世:皇帝円舞曲(1950録音)
・ウェーバー:歌劇「オベロン」序曲(1950録音)
・メンデルスゾーン:フィンガルの洞窟(1949録音)
・ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲(1949録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
神がかった、どれほどの気迫のこもった演奏であろうと、残念なことに僕たちはあくまで録音を通じてしかフルトヴェングラーの至芸に触れることができない。あらためて何たる痛恨・・・。
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[…] というもの、この、インテンポの堂々たる音楽が欲しいときもある。もちろんフルトヴェングラーの奇蹟の録音のようにデュナーミクとアゴーギクを駆使し、まるで人間の呼吸と同期する […]