レンスコウ&ラムビアスのブラームス交響曲第2番(2台ピアノ版)を聴いて思ふ

brahms_symphony2_piano_duo_lonskov_llambias020ワーグナーは、盟友リヒターや妻コジマとことあるごとに連弾を楽しんだという。
当時、音楽を享受するにはおそらく今ほど頻繁ではなかったであろうコンサートに出掛け、実演を聴くか、あるいは自身で楽器を演奏するかしか術はなかった。特に、管弦楽を伴う大曲を一般人が耳にする機会を得るのは容易ではなかったはず。

午前中、リヒャルトはリヒターと(ベートーヴェンの四重奏を何曲か)演奏した。夕方は《オイリュアンテ》序曲。その時リヒャルトは、この曲から感銘を受けた幼い頃のことを話してくれた。ウェーバーの指揮のもと、ヴァイオリンのG線による伴奏が響くと、子供ながら魔性のものにでも魅入られたように引き込まれていったという。「あのような子供の時分の印象は、それを体験したことのない者に言っても通じないだろう」。
1870年10月2日日曜日
~三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記2」(東海大学出版会)P176-P177

ウェーバーの自作自演によるコンサートの幼少時の記憶と今、友と演奏するベートーヴェンの四重奏曲の重層が、ワーグナーに一体どんなインスピレーションをもたらしたのだろう?「それを体験したことのない者に言っても通じないだろう」という言葉にすべてが表されるのかも。何事においても体感によって得られるものに優るものはない。

10年前の「音楽現代」に掲載された、三善晃氏の「“聴きあえる音”を探り出す」というタイトルのインタビューをひもといた。

連弾と2台ではアプローチが異なりますが、共通する点もあります。それは、同じピアノを使っても、10本の指だけでは表現できないことを求めるのです。それも単に20本指があればいいということではなくて、片方の奏者が自分の演奏を耳にしながら、もう片方の奏者の音を聴いて、ひとつの音楽として演奏を作り上げていく。そのようなことを、基本的には目指します。ある意味で、ピアノ・デュオは、アンサンブルの最もプリミティブな形体であると認識しています。・・・(中略)・・・(2台ピアノ曲が)連弾と最も違う点は、遠近法的な表現ができるというところです。2台のピアノがあれば、音響的にも空間的な広がりが出ますね。パースペクティヴという言い方が適切かもしれません。
~「音楽現代」2004年9月号P96

「アンサンブルの最もプリミティブな形体である」という見解に膝を打つ。
ヨハネス・ブラームスがクララ・シューマンと「聴き合ってひとつの音楽を作るため」に2台ピアノ版を編んだのかはわからない。しかしながら、この音楽には極めて個人的な感傷や愛情が聴きとれるのである。少なくとも通常の管弦楽版にはない、ピアノを介して向き合う相手に、互いに送った思念や感情が見事に音化されているように僕には聴こえるのだ。オーケストレーションされていない音は基本的には墨絵のようだが、しかし、ここには単色でありながら実に色彩豊かな音の連なりが在る。

ブラームス:
・交響曲第2番ニ長調作品73(2台のピアノのための原典版)
・大学祝典序曲ハ短調作品80(2台のピアノのための原典版)
トーヴェ・レンスコウ(ピアノ)
ロドルフォ・ラムビアス(ピアノ)(1992.5録音)

第1楽章アレグロ・ノン・トロッポから2台のピアノがうなり、囁く。なるほどこれは、ブラームスの(神々や大自然に対する)信仰心が見事に音化された楽章なんだ。また、第2楽章アダージョ・ノン・トロッポにおける、2つのピアノの対話は聴きどころ。何という愛情。ここは、ブラームスの愛する人へのラブレターだったのだ。
そして、喜びの第3楽章を経、終楽章アレグロ・コン・スピリートの、決して暴発しない流れる爆発力に感極まり、一旦静まった楽想に涙するもコーダの得も言われぬひらめきに僕は思わずひれ伏してしまう。第2交響曲はブラームスがまさに感性で仕上げた名作だ(ということをこの2台ピアノ版はあらためて思い知らせてくれた)。
付録の「大学祝典序曲」も名演。

 

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