アバド&ベルリン・フィルのブラームス「アルト・ラプソディ」ほかを聴いて思ふ

brahms_alt-rhapsodie_abbado_bpo021ブラームスはスケールが大きく、きわめて誠実だった。ちょっとした嘘さえつけない。超大物芸術家にして一点の染みもない人格者、友人たちは知らない間に虜になっていた。ところが彼には、自分を押さえたり口を控えたりする習慣がない。嫌いなら嫌いとはっきり言う。加えてぶっきらぼうで、立ち居振る舞いはぞんざい。ブラームスはがさつものと見られていた。
天崎浩二編・訳/関根裕子共訳「ブラームス回想録集③ブラームスと私」(音楽之友社)P156-157

ブラームスという男はいわば「共感性」が高いのだ。つい口を突いて出てしまうブラックな言葉も本人的にはあくまでユーモアで、決して人を傷つけようなどと意図はなく、むしろ自分と同じようにそのことにも共感してくれるだろうという「誤解」があっただけ。それくらいにこの人は純粋無垢で、人は誰でも自分のことをきちんと理解してくれるだろうと信じていたのである。
いわゆる天才肌であったことは間違いないが、存命時からすでに社会的地位と財を得ていたところが過去の天才と呼ばれる人たちと異なるところ。ゆえに彼には圧倒的自信があった。

カール・ゴルトマルクの自叙伝「わが生涯の回想」には次のようにある。

彼のピアノ四重奏曲を練習することになったとき、ヘルメスベルガー四重奏団の第2ヴァイオリン奏者、ドゥルストが気に入らないという意味の発言をした。するとブラームスはむすっとして、
「君の意見なんか聞いちゃいないよ」
デッソフが指揮する、フィルハーモニーのリハーサルでも同じだった。曲は彼の《セレナーデ》。オーケストラは作品が気に入らない様子で、ざわつき始めた。するとブラームスは指揮台に上がって、
「みなさんよろしいですか、私はベートーヴェンじゃありません。ヨハネス・ブラームスなんです」
~同上書P155-156

ブラームスの作品が決して単なる古典の模倣でなく、厳格な形式のもと革新的だったということだ。だから当時の人々からしてみると難解ではあった。

ブラームス:
・アルト・ラプソディ作品53
・運命の歌作品54
・運命の女神たちの歌作品89
・哀悼の歌作品82
マリヤーナ・リポヴシェク(アルト)
エルンスト・ゼンフ合唱団
ベルリン放送合唱団
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

クラウディオ・アバドがベルリン・フィルのシェフに収まった時少々がっかりした。僕のそれまでの印象では、保守的で変わり映えのしない、若々しいとはいえ面白味のない解釈をする人というものだったから。ところが、ふたを開けたら違っていた。コンサートのプログラミングも含め、常に果敢な挑戦をし、新たな境地を開拓した。それによって新たな作品に開眼する人は多かったのではなかろうか。

彼の、そういう前のめりの誠実さが見事に記された録音がこのブラームスだ。作曲家が得意とした合唱を中心にした代表作を収めているが、いずれもが重厚でありながら見通しよく、実に繊細で解放的な音楽となっている。
例えば、ゲーテの「冬のハルツの旅」に基づく「アルト・ラプソディ」の深刻なのに明朗な表現の妙。第1部アダージョの重い足取りが何と心地良いことか。第2部ポーコ・アンダンテを経て第3部アダージョの感謝に溢れる開放感に思わず心躍る。
とはいえ、最も優れているのはシラーの詩による「哀悼の歌」だろう。何という枯淡の官能性。管弦楽による前奏に続き、ソプラノ、アルト、そしてテノール、バスと引き継がれるフーガの崇高な美しさは、合唱曲を得意としたブラームスの真骨頂。そして、ここでのアバドの、ただ音楽をありのままに表現しようとする潔さ。この姿勢こそが曲想に巧く合致し、これほどに深い音楽を生み出したということだ。
あらためてブラームスに感動した。これらの合唱作品集の根底に流れるものは、ブラームスの「共感性」であり、アバドの「包容力」だ。クラウディオ・アバドがもうこの世にいないことを一層残念に思った。

 

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