ガブリエル・フォーレの「レクイエム」は真に美しい。それこそ天にも昇る静けさと祈りの想念に満ち、この音楽に対峙する瞬間に浸ることのできる安息感はほかの何ものにも代え難いものだ。まさにこの世が幻想であり、そして生こそ苦悩であることを表し、同時にあの世に真実があることを教えてくれる傑作。死は恐れるに値しない。
私の「レクイエム」・・・は死に対する恐怖感を表現したものではないと言われており、中にはこの曲を死の子守歌と呼んだ人もいた。しかし、私には死はそのように感じられるのであり、それは苦しみと言うよりもむしろ永遠の至福と喜びに満ちた解放感にほかならない。グノーの音楽が人間的優しさに傾き過ぎていると非難されても、彼の本性がそのような感性を導いたのであり、そこには固有の宗教的感動が形作られている。芸術家には自己の本性を容認することが許されていないのだろうか。私の「レクイエム」について言うならば、恐らく本能的に慣習から逃れようと試みたのであり、長い間画一的な葬儀のオルガン伴奏をつとめた結果がここに現れている。私はうんざりして何かほかのことをしてみたかったのだ。
~ジャン=ミシェル・ネクトゥー著/大谷千正編訳「ガブリエル・フォーレ」(新評論)P83
得てして人は先入観をもって新しい作品を捉えがちだが、あくまで人間が媒介になっている以上、作曲家が観た情景、あるいは感じた情緒が作品に投影されるものだ。そしてそれが真理を突いたものであればあるほど、永遠不滅の傑作として後世に残る。
ちなみに、堀江真理子さんが「ガブリエル・フォーレ―人と音楽―」という小論で、フォーレが死の2日前(1924年11月2日)に2人の息子たちに残した言葉を紹介されており、興味深い。
私がこの世からいなくなった時、私の作品が言わんとしていることを聴きなさい。結局それだけのことだったのだ・・・。人々はおそらくそのことから心が離れていくだろう・・・。心を悩ましたり深く悲しんだりしてはいけない。それは運命なのだから。サン=サーンスや他の人々にも起こったことなのだ・・・。いつか忘れる時がくる・・・全てが大したことではない。私はできる限りのことをした・・・。後は神よ、お裁き下さい・・・。
~日本フォーレ協会編「フォーレ頌―不滅の香り」(音楽之友社)P136
この達観こそがガブリエル・フォーレその人なのである。そして、そのことは既に1887年の「レクイエム」にも見事に刻印されており、42歳の時点ですでにこの人は悟りを開いていたのではと思われるほど。
ミシェル・コルボ最初の録音を。
フォーレ:レクイエム作品48
アラン・クレマン(ボーイ・ソプラノ)
フィリップ・フッテンロッハー(バリトン)
聖ピエール=オ=リアン・ド・ビュール聖歌隊
フィリップ・コルボ(オルガン)
ミシェル・コルボ指揮ベルン交響楽団(1972録音)
崇高な”Sanctus”(聖なるかな)に身も心も焦がれる思い。
そして、“Pie Jesu”(ああ、イエズスよ)の祈りにひれ伏す。アラン・クレマンのボーイ・ソプラノのあまりの美しさ。
めぐみふかき主イエスよ、彼らに安息を与え給え。
永遠の安息を与え給え。
(歌詞大意:高崎保男)
さらに、終曲”In Paradisum”(楽園にて)の安寧はいかばかりか。同じくボーイ・ソプラノに癒される。
天使たち、汝をば天国に導き、
殉教者たち、汝をば迎え入れ、
聖なる都イエルサレムへといざなわん。
彼処には、天使たちの合唱、汝を迎うべし。
嘗っては貧しき乞食なりしラザロと共に。
な時に詠絵院の安息あれ。
(歌詞大意:高崎保男)
万人必聴の、そして稀代の名演奏であり、名盤だと思う。コルボですらこの録音を乗り越えられていない。
ちなみに、コルボが少年時代から敬愛していた叔父が亡くなり、その叔父が指導していた聖歌隊を率いて念願だったフォーレのレクイエムを録音することになったというのが経緯らしい。ならば、なおさら意味深い。
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