
すべての公演をつつがなく終えて、私たちは想い出深いイスラエルをあとにケルンに帰った。ケルンでは我々にとり、特に私には最も責任ある、ケルテス夫人への報告という仕事が待っている。どう説明し、何と言って謝まろうか。止めなかったのも、救いに行けなかったのも私である。我々3人はフィッシャー氏に先導されて、おずおずとケルテス邸のベルを押した。出て来た夫人は我々を見てほほえんだ。無言のまま、まずポップとグラマッキが夫人と抱き合った。私は何も出来ずに、視線を床におとしたまま、ただじっと立っていた。と、夫人は手を差しのべて私の手を握った。そして黙って私を奥へ引っぱって行った。我々は広間に着席した。コーヒーが運ばれて来た。そこで初めて、私は勇を鼓して口を開こうとした。
「もういいんです」
夫人がさえぎった。そしてワーッと泣き出すと、上半身を机上にうつぶせて言った。
「私はあの人の不注意が憎くて、憎くて!」
誰も無言であった。しばらくして泣き止むと、夫人は我々を迎えた時と同じように微笑んで、落着いた声で言った。
「花が用意してあります。お墓に行って逢ってあげてね」
ケルテスの墓はケルン市内の大きな墓地にある。毎年、命日の4月16日には花に埋る。
~岡村喬生「ヒゲのオタマジャクシ世界を泳ぐ」(新潮社)P201
イシュトヴァン・ケルテスの水難事故の現場に居合わせた岡村喬生さんの「紺碧の海、ケルテスをのむ」というエッセイの生々しさ。未来を嘱望されたケルテスは、1973年4月16日にわずか43歳でこの世を去った。残された録音を聴くにつけ、たくさんの彼の録音を聴いてみたかった、そしておそらく来日したであろう彼の実演をこの耳で確かめたかった。
1997年8月、僕は仲間と中欧を旅した。
ハンガリーはブダペストにも寄ったが、この街ではバルトークの記念館、コダーイの記念館を散歩がてら訪れた。そこで、おそらく管理人だろう老婆に声を掛けられ、何語だったか不明だが、置時計を指しながら何やら説明してくれたことを思い出す。今となってはそれが何を意味していたのかわかるが、そのときはピンと来ず、ちんぷんかんぷんだった。
なるほど「ウィーン音楽時計」のモチーフになった時計だよとでも言いたかったのだろう。

もはや30年近く前のことだが、昨日のことのように思い出す。
ハーリ・ヤーノシュの冒険譚。
その組曲を、ケルテスの名盤で聴く。
同じくハンガリー民謡の採集をライフワークとしたが、盟友ベラ・バルトークの場合と、作風は著しく異なる。ただし、いずれも大衆音楽をいわば芸術に昇華した、そういう役割を背負った大音楽家たちだ。
このエキゾチックな響きは、コダーイならでは。
そして、音楽を(思い入れたっぷりに)美しく再現するケルテスの指揮の素晴らしさ。
ケルテスの指揮は明快で、遊びがあり、喜びに満ちる。
(文字通り音を楽しむのだ)
脱力の臨機応変さは、普遍的な音楽を表現する上で重要な要素だが、ケルテスの無鉄砲な性格はこういうところにも生きていたのだろうと想像した。
コダーイの音楽
