ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル チャイコフスキー 交響曲第5番ホ短調作品64(1960.11録音)

チャイコフスキーはこの交響曲について、日記の中に「すばらしいプログラム、もしそれを私が詳説することができたなら!」と書いている。つまりここにはプログラムがあるが、それを言葉で述べることは出来ないといい、我々が勝手に想像をたくましくすることは許されない。第6交響曲の場合にも「ひとつのプログラム、しかし誰にでも謎としてとどまるプログラム」といい、「そのプログラムは主観的な感情である」といっているのは意義深い。
(渡辺護)
ESSG90037/8ライナーノーツ

チャイコフスキーにとって創作とは、あくまでプライヴェートなことだったのだろう。そんな中、ムラヴィンスキーはその「私信」に斬り込み、感情を排した、客観的ドラマとして音楽を再生した。

エフゲニー・ムラヴィンスキーの十八番。
チャイコフスキーに関しては、どういうわけか交響曲第5番の演奏が圧倒的に多かった。
(実際、個人的にムラヴィンスキーの哲学的解釈のどの瞬間も僕を納得させる)

チャイコフスキーの第5番は10年前にもライブでフィルムに収められていた。これはマイクロフォンの前での最後の演奏となり、テレビ視聴者の前に披露された厳しい悲劇的なカンバスだった。過去の慣例に従って、ゾロトフの記録はフィルハーモニーでのコンサートの前に収録された。テレビの視聴者は、ムラヴィンスキーが自分の部屋でゾロトフに語りかけている姿を目にした。ムラヴィンスキーは「間奏曲」としての偉大なワルツでの、恐ろしい運命を覆い隠しているグロテスクな踊りについて語った。この作品をロマンティックなものと呼ぶのはまったく間違っている。この交響曲の最終頁には運命の苛酷なテーマがある。ムラヴィンスキーは、自分の解釈について、毎回異なり—同じであるはずがない—どの演奏も、雰囲気や音響効果、他の環境に左右されるので、ひとつとして同じものはないのだと語った。マイクの前では気乗りしない、やや不安気な様子が見られるが、お茶を飲みながら、例によって煙草をくゆらせ、神経質に手を動かしているうちに、緊張は次第に解けていった。ムラヴィンスキーがカメラを前にしてインタビューを受けたのは、結果としてこれが最後となった。
グレゴール・タシー著/天羽健三訳「ムラヴィンスキー高貴なる指揮者」(アルファベータ)P319-320

本人は常に作品の研究を怠らず、確かに毎回異なる解釈なのだろうが、聴き手からすると、いつの演奏もムラヴィンスキーの解釈だとわかるくらい、独特の造形を持つ(特に金管群の扱いについては巨匠の方法は人後に落ちない)。

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最もオーソドックスで、安心できるのはやはり1960年のDGへのセッション録音(ステレオ)だろう。

・チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調作品64
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(1960.11.9-10録音)

やっぱり、すごく良い。
チャイコフスキーは、自身の音楽の意味について多くを語らなかった。
標題音楽的作品を、絶対音楽として解釈し、音にするムラヴィンスキーの魔法。
普遍的であるのはそういう理由からだろうとあらためて思った。

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