
陰陽二気という現実世界にあって、芸術にも正と負があり、いずれもが必要な要素であることは確かだ。すべてを生かし、そこに旋律と律動と和声の三位一体が正しく、そして革新をもって成立したとき、傑作が生まれるのだろうと僕は思う。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタについてヴィルヘルム・ケンプは書く。
さて次に人は私にこういう質問をします。ベートーヴェンをいかに演奏すべきか? 古典的にか? ロマン的にか? 今日称賛の言葉があたえられている「即物性」を以てか?
私はむしろここで一つの質問をしたいと思います。ベートーヴェン自身は彼の作品をどう演奏したのであろうか? 彼のハ短調協奏曲の演奏に関する報告は我々に残されています。それを書いたウィーンの批評家たちのことばは決して冗談ではないのでありますが、非常に批判的にひびき、まるでベートーヴェンがベートーヴェン的に弾かなかったと叱責しているかのようです。
彼の刺すようなフォルテは非難され、彼の激昂する感情は叱責され、そして当時のウィーン人の偶像であったヨハン・ネポムック・フンメル—彼は確かに尊敬に値する音楽家ではありましたけれど—がベートーヴェンのとどき得ない模範として比較に出されたくらいです。そしてフンメルの演奏のなめらかさ、音の優雅さの点をベートーヴェンは、ピアニストとして彼に学ぶべきであるとさえ云われました。ベートーヴェンはこれら批評家の忠告に対して手紙を以って返事を書いています。この答は余りに思い切った表現をとっていますので、此処で報告するのはやめておきましょう。しかしベートーヴェンの心が深く打撃を蒙ったことをその手紙に示し、また不撓の自負と、かのゲーテでさえも驚いた情熱的気質を示しています。ここにはスフォルツァーティのベートーヴェンの面目躍如たるものがあります。スフォルツァーティ、これこそは彼以前には余り前面に現われなかったもので、怒れる巨人の脅かすような動作を示すものです。しかしこの巨人はまた何とやさしい感情にも充ちていたことでしょう。何という子供らしい純粋な魂が、この運命に苛酷にしいたげられた人の中に宿っていたことでしょう。
だからもしあなた方が、いかにベートーヴェンを弾くべきだと質問されるなら、私は次のように答えることが出来ます。ベートーヴェンのソナタの持つそれぞれの技術的な課題、技術的なむずかしさをもはや意識しないようになるまで、あなた方の技術的基礎を発展させるようにして下さい。
~PROC-1731/8ライナーノーツ
ここに書かれていることが、ケンプの本懐ならば、すべての感情が網羅され、そしてあくまで自然体でベートーヴェンを奏している、その記録こそがこの全集の成果なのだということが可能だ。
ピアノ・ソナタ全集からの1枚。
ハノーファーのベートーヴェンザールでのセッション録音。
ちょうど今の僕がこの世に生を受け、間もない頃のこと。
「ハイリゲンシュタットの遺書」前の、ベートーヴェンがウィーンで活路を見出し、公衆からピアニストとして多大な評価を得ていた絶頂時の作品群を、ケンプは自身の言葉通り、優しく、しかし時に激昂し、聴衆をベートーヴェンの世界へと誘ってくれる。
個人的には、巨匠の演奏は、古典的でもなく、もちろん即物的でもなく、非常に浪漫充ちる解釈だと確信する。そのことは、例えば有名な「月光」ソナタを聴けば歴然だ。囁くように、思念を込めて歌われる第1楽章アダージョ・ソステヌートの魔力。あるいは、淡々と進めながら終楽章への序奏として機能させる第2楽章アレグレットも実に健康的だ。
そして、ついにソナタ形式として現れる終楽章プレスト・アジタートの、熱気こそケンプの業(速過ぎず、遅過ぎず、この堂々たるテンポの音楽が聴きどころ)。
冒険の後、古典的ソナタの正統な形式に回帰したベートーヴェンの傑作、「田園」ソナタでの、ケンプの慈悲と滋味。
何と優しい響きだろうか。
ケンプのベートーヴェン「ワルトシュタイン・ソナタ」ほか(1964録音)を聴いて思ふ
ケンプのベートーヴェン作品101, 109, 110&111(1964録音)を聴いて思ふ
ケンプのベートーヴェン作品79、作品81a、作品90、そして作品106(1964-65録音)を聴いて思ふ 