後世の人間はそれこそ勝手に想像力を膨らませる。
ベートーヴェンのハ短調協奏曲作品37第1楽章の主題は、ハ短調交響曲作品67の終楽章の主題(こちらはハ長調)に酷似する。協奏曲の調性が同じであることが余計に両者の関係の密接さを物語るわけだが、おそらくベートーヴェンに深い意図はなかったと想像する。
単にインスピレーションのままに書き記しておいた楽想が、都合良く両作品の創造過程にはまっただけなのである。
管弦楽の重厚な響きと音調の暗さに比してピアノは終始明るく軽快だ。30歳のベートーヴェンの内側には、すなわち「ハイリゲンシュタットの遺書」前夜の楽聖の内側には、悟りまでいかないにせよ「抜ける」ような体感があったはず。ここには第1協奏曲、あるいは第2協奏曲の、18世紀古典派の色濃い作風からは到底想像不可能な飛躍が見られる。
ということは、あの遺書の意図は、自身の解放のための心情吐露だったということ。というより、死を意識したものでは決してなかった。
そうなるはずならば―悦んで私は死に向かって行こう。―芸術の天才を十分展開するだけの機会をまだ私が持たぬうちに死が来るとすれば、たとえ私の運命があまり苛酷であるにもせよ、死は速く来過ぎるといわねばならない。今少しおそく来ることを私は望むだろう。―しかしそれでも私は満足する。死は私を果てしの無い苦悩の状態から解放してくれるではないか?―来たいときに何時(いつ)でも来るがいい。私は敢然と汝(死)を迎えよう。―ではさようなら、私が死んでも、私をすっかりは忘れないでくれ。生きている間私はお前たちのことをたびたび考え、またお前たちを幸福にしたいと考えて来たのだから、死んだのちも忘れないでくれとお前たちに願う資格が私にはある。この願いを叶えてくれ。
1802年10月6日「ハイリゲンシュタットの遺書」
(片山敏彦訳)
楽聖はここですでに腹を括っていたということか・・・。本当に自死に向かおうとする人はこういう言葉は決して吐き出さないものだろう。
クラウディオ・アラウが、晩年に録音した音盤を聴いた。
死の影を追い払うような、まるでデトックスのための作品。
クラウディオ・アラウとコリン・デイヴィスによる丁寧な運び、想いのこもった演奏を聴いて、僕はおそらく初めて心を動かされた。第3協奏曲がこれほど素晴らしいと思えたことはなかった。
ベートーヴェン:
・ピアノ協奏曲第3番ハ短調作品37(1987.6録音)
・ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58(1984.10録音)
クラウディオ・アラウ(ピアノ)
サー・コリン・デイヴィス指揮シュターツカペレ・ドレスデン
第2楽章ラルゴの静けさと愛らしさ。老練の大家であるがゆえの脱力の美がここにある。第3楽章ロンドの、おどけた愉悦にもどこか暗澹たる哀しみが垣間見えるが、これこそベートーヴェンの「すべて」であり、この時期のアラウであるがゆえに可能だった演奏なのである。
そして、第4協奏曲の何という重い足どり!!第1楽章冒頭のピアノ独奏による主題提示に応えるシュターツカペレ・ドレスデンの深い祈りに感謝の念を覚えざるを得ない。何という崇高さ!何という愉悦!!そして何という快感!!!
第2楽章アンダンテ・コン・モートの内的激白と第3楽章ロンドの外に向けての解放の対比がこれまた見事。
生命力漲るベートーヴェン。
こういう演奏を聴くと生きとし生けるものすべてに感謝をしたくなる。
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