オレグ・カエターニのショスタコーヴィチ交響曲第8番を聴いて思ふ

shostaovich_8_caetani084深層にこびりつくような音の洪水。獰猛さと安寧が錯綜する・・・。
生から死へと、そして死から再生へと森羅万象の輪廻を音化した究極のドラマがここに在る。
十字架を背負ったショスタコーヴィチの真骨頂。まるで先の大戦の全責任を自らとってしまおうと言わんばかりの根こそぎ重戦車。哀しみも歓びも、熱狂も爆発も、そして安息も・・・、あらゆる人間的感情の坩堝。慟哭の涙に始まり、心静かな祈りで終わる。
オレグ・カエターニの激烈でありながらどこか沈着で冷静な演奏が一層拍車をかける。

「ペレアスとメリザンド」における第5幕最初の女中の証言「ゴローとメリザンドの血の染みがそこにあった」という言葉のマリーズ・デキャンの解釈は、ショスタコーヴィチのこの曲を表現しての言葉のように僕には思われた。

この最初の夜明け以来、全てがすでに遂行されている。染みは敷居の上にすでにあって洗い流すことは不可能で、門番が「決してやり遂げられないよ」と言うように、登場人物が何をなそうと運命の力を覆すことはできないのだ。
村山則子著「メーテルランクとドビュッシー」(作品社)P62

交響曲第8番は運命に翻弄される人々を描くよう。
そして、このことはマックギネスによる「ペレアス」解釈の次の一文にもつながってゆく。

戯曲の循環する時間的配列の中で、過去は未来を予想し、未来は過去の実現である。過去の事件はいまだ起きていないことの予言であり実行である。この(=第5幕)冒頭のシーンは戯曲上の時間について問題を提起するという役割を持っている。・・・(現在は)なく過去と未来との闘争がある。
~同上書P64

なるほど、「過去と未来との闘争」とは言い得て妙。今眼前で鳴り渡る音楽が、どこか空虚な響きを持つのには「現在」がなかったことによるのだと腑に落ちた。世紀末のフランスの天才と20世紀を生きたソビエトの天才が交差する。

ショスタコーヴィチ:交響曲第8番ハ短調作品65
オレグ・カエターニ指揮ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団(2004.10Live)

音の有機性、フレーズの自然なつながり、そのすべてがあまりに素晴らしい。カエターニは、決して奇を衒わず訥々と音楽を語る。第3楽章アレグロ・ノン・トロッポの阿鼻叫喚に心が引き裂かれる思い。続くラルゴの静けさに涙を流し、終楽章アレグレットに思わずひれ伏す。最後のヴァイオリン独奏の静かな歓喜に浸るうちに、いつの間にか音楽は解体、消え入るように音楽が終わる様に人間の闘争はいつまでも終わることがないのだと悟る。

こと録音に関していうなら、音圧の極端に低いものや空間を感じさせない平板なものは、どれだけ白熱した演奏で、どれだけ聴衆の熱狂が記録されていようと感動は薄い。いや、どちらかというと興醒めだと断言しても良いくらい。もしもオレグ・カエターニのこの演奏を実演で触れていたならば卒倒していたかも。もはや想像の翼をこれでもかというくらい拡げるしかない。

新たにボックス化されたこの全集の音質は良いとはいえない。残念なことに・・・。

 

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2 COMMENTS

畑山千恵子

昨年、これをゲルギエフ、マリンスキー歌劇場管弦楽団で聴きました。大変素晴しい演奏で、ムラヴィンスキーのものも買って、聴きました。ショスタコーヴィチはスターリン、ブレジネフとも戦ってきたことを改めて確認しました。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様
昨年のゲルギエフの公演は聴けませんでしたが、この曲を得意としているゲルギエフの演奏はさぞ素晴らしかったことと想像します。

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