シノーポリのリヒャルト・シュトラウス「平和の日」を聴いて思ふ

r_strauss_friedenstag_sinopoli083歴史が面白いのは、「事実」が時間と空間とともに連綿とつながっているからだ。今、僕たちの目の前で(あるいは世界で)起こっている様々な事象も、今に始まったことではなく、ましてやここ数十年の出来事でもなく、何百年、何千年、有史以来人類が繰り返してきた行為を発端とするものだ。そして、残念ながら、その行為が「過ち」であることも実に多い。

人は誰でも自分が正しいと信じている。そして、その思想やイデオロギーが違えば人と人とは自ずとぶつかる。どちらかが妥協するならまだ良い方で、いかに自らが正当であるかを相手に認めさせるために最終的にはどちらからともなく戦い(戦争)を仕掛けてきた。いつの時代も、どこのソサエティ、地域、あるいは国でも。

リヒャルト・シュトラウスの歌劇「平和の日」は、カトリック対プロテスタントという構図の宗教戦争であったドイツ30年戦争の最後の日が舞台。このオペラで唯一名前を与えられている司令官の妻マリアがキーパーソンで、物語はワーグナー張りに「いかにも女性の無垢な純愛が世界を救う」的なモチーフをなぞってゆくが、音楽的にもマリアの歌はとても明朗で解放的で、どちらかというと地味な印象のオペラの中にあって紅一点ともいうべき幸福感に満ちる。

ちなみに、彼女が登場するや切々と歌われるアリアは夫への愛と戦争の無益、平和の尊さを訴えかけるものだが、どこか「イゾルデの愛の死」のような哀感を髣髴とさせ、その包容力と妖艶さが堪らない。最後、マリアのいわば「魔力」によって司令官同士は抱擁を交わし、戦争は終結するのだが、シュトラウスがワーグナーと確実に異なる点はここ。そう、シュトラウスは死をもって愛の成就を図るのではなく、あくまで生きてこそ愛だと考える。いかにも現実的な人だ。

そういえば、1935年の「無口な女」初演の直前のいわゆる「ツヴァイク事件」の際、シュトラウスが感情に任せて認めた手紙には次のようにある。

私にとっては2種類の人間しか存在しません。才能のある人とない人です。私にとって民族とは、それが聴衆になる時初めて存在するものなのです。中国人だろうと、オーバーバイエルン人、ニュージーランド人、あるいはベルリンっ子だろうと、人々が入場料をきちんと払ってくれたら、私には同じなのです。
岡田暁生著「作曲家◎人と作品シリーズ リヒャルト・シュトラウス」(音楽之友社)P172

いかにも現実主義者であることが文面に滲み出ている。この手紙がナチス当局の手に渡って大問題に発展したことは周知の事実。

リヒャルト・シュトラウス:歌劇「平和の日」作品81
アルベルト・ドーメン(司令官、バス)
デボラ・ヴォイト(マリア、ソプラノ)
アルフレート・ライター(曹長、バス)
ヨハン・ボータ(ピエモンテ人、テノール)
アッティラ・ユン(敵司令官、バス)
ジョン・ウィラーズ(市長、テノール)、ほか
ドレスデン国立歌劇場合唱団
ジュゼッペ・シノーポリ指揮シュターツカペレ・ドレスデン(1999.9録音)

クレンペラーの衣鉢を継ぐべきはジュゼッペ・シノーポリだったのではと、彼のリヒャルト・シュトラウスを聴いて思った。理知的といえば聞こえの良いクールさ、大胆かつ大味に見せながら、その実繊細で、全体観に優れた解釈。それらはクレンペラーのシュトラウスにも通じる特長だ。

ナチスが支配していた当時のドイツという国家の内側からこの作品が生まれ出たことがまた興味深い。

 

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2 COMMENTS

畑山千恵子

これはサヴァリッシュのものも出ていました。今、入手可能かはわかりませんが、一聴の価値があります。

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