1970年頃、吉田秀和さんは(若き)クラウディオ・アバドを評して次のように書いた。
しかし、アバドには、どこか音楽に無理を加えず、らくらくと流してゆくところがある。そういうのがよく発揮された時、たとえば先にあげたロッシーニのオペラであるとか、彼のレコードでいえば、メンデルスゾーンの交響曲であるとか、そういうものをきいていると、大家といえども感じられない軽さや、さわやかさが吹きよせてくるような思いに誘われ、この人には、洋々たる前途があるだろうし、そうあってほしいのだが、という気になる。
~「吉田秀和全集5 指揮者について」(白水社)P250
果たして、年月を経ての、晩年のルツェルン祝祭管弦楽団との演奏などを思うに、吉田さんが予想した以上に彼は神性を獲得し、多くの人々を大いなる感動に沸き返らせたことは記憶に新しい。おそらく、それは、アバドがベルリン・フィルハーモニーのシェフとなってからの新しい試みによるところが大きいのだと思う。
アバドが監督であった時代のベルリン・フィルの支配人であるウルリヒ・エックハルトは言う。
アバドの権威は、まさに音楽を作りあげる場で発揮されます。彼には、共に演奏するオーケストラの心理について、自然な勘が働くのです。プレッシャーをかけたり、急がせたりすることなく、オーケストラを成長させていくのです。強いるようなことはせず、まるでそれを初めて聴くかのように、一種に作品に近づいていくことができる。楽団員一人ひとりの責任感や信念から、全員をまとめる集中力が生まれます。
~ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル―あるオーケストラの自伝」(春秋社)P356-357
メンバーの主体性や自主性を重んじたその姿勢に敬意を表わさざるを得ない。確かにかつて吉田さんが言われた「どこか音楽に無理を加えず、らくらくと流してゆくところ」は音楽作りだけでなく、オーケストラへの指示の仕方にも通じていたということだ。そうして生まれた音楽が悪かろうはずがない。晩年の類い稀な芸術への足掛かりとなったベルリン・フィルでの数多の演奏は、いずれも素晴らしい。
ドヴォルザーク:
・交響詩「真昼の魔女」作品108
・交響曲第8番ト長調作品88
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1993.11.16-19Live)
一切の力みのない自然体のト長調交響曲。
歌謡調の第3楽章アレグレット・グラツィオーソ―モルト・ヴィヴァーチェの美しさ。終楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポにおける、ベルリン・フィルの最高の機能性を発揮した演奏は他にはない完璧さ。それでいて決して無機的に陥らず、音楽は隅から隅まで血の出るような温かさを持つのだから素晴らしい。
ドヴォルザークの、祖国ボヘミアへの忠誠に根ざした作品であるがゆえ、いずれの作品も自ずと耽美性と土俗性をあわせもつようだ。アバドはその真髄を見事に再現する。
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>確かにかつて吉田さんが言われた「どこか音楽に無理を加えず、らくらくと流してゆくところ」は音楽作りだけでなく、オーケストラへの指示の仕方にも通じていたということだ。そうして生まれた音楽が悪かろうはずがない。
私は、アバドは一般の人が抱くイメージより、もう少し複雑な性格だったと思っています。時に変に自分流な楽譜にこだわったりするところ(ペトルーシカ、モツレク、ザ・グレイト等の録音)にもそれを感じます。
>雅之様
>私は、アバドは一般の人が抱くイメージより、もう少し複雑な性格だったと思っています
確かにそうかもですね。とはいえ、彼の音楽に対しては勉強不足なのですが、自分流な楽譜へのこだわりというところはよくわかります。