サヴァリッシュ指揮スイス・イタリア語放送管の「ブランデンブルク協奏曲第5番」を聴いて思ふ

bach_schubert_sawallisch134バッハのブランデンブルク協奏曲第5番。なぜだか止めどなく涙が流れる。
どうにもならないジレンマがこの世にはある。自らの意志で動くこともあればそうならないことも厳然とある。邂逅あれば別離あり。すべては幸せの通過点なり。

何よりそのチェンバロ・プレイの、繊細で柔らかく、そして実に音楽的で豊潤な音色に感動。まるでバッハが生まれ変わって鍵盤を叩きながら指揮をしているのではと思うほど、音楽が活き活きとする。こんなブランデンブルク協奏曲は初めてかも。
理想的なテンポで繰り出される第1楽章の主題に心動く。続いて現れる通奏低音を受け持つチェンバロの何気ない美しさとフルートの柔和で愉悦的な調べに感無量。
聴くべきは例の長大なチェンバロによるカデンツァ。ほとんど楽器を感じさせない「自然」がここにあり、バッハの魂が見事に宿る。
第2楽章アフェットゥオーソの、哀切極まるフルートの調べに涙し、弦楽器の合いの手に深い愛情を覚える。ここでも通奏低音のチェンバロの確信的響きにサヴァリッシュの果敢なリーダーシップを垣間見る。

バッハの音楽についてのエドヴィン・フィッシャーの言葉を思い出した。

バッハの作品は、だれにでも、音楽家でない人にでも語りかける。このことは、ひとつの比喩によってもっとよく説明できる。すなわち、どんな人生にも、すべての外的なもの、すべての外観、すべての見せかけがわれわれから離れ落ちる瞬間がある。私たちはそのような瞬間に人生を自然の出来事として感じ、誕生、最高の悦楽、最も深い苦しみ、死、といった人生の永遠の諸動機を感受する。私たちは人生を、私たち貧しい人間がほとんどさからうことのできない運命として感じる。いまやわれわれという木から生命の液が湧きでるかのようなのだが、その液は、甘い味もしないし、酔いをもたらすこともない。この生命の水は、渋く、苦く、薬味にみちている。それのすばらしいところは力だ―そしてこの力は真実なのだ。バッハの音楽もこれに似た味がする。彼の創造に美と力をあたえているのは、つねに真実であり、絶対的な純粋なものである。
「音楽の手帖バッハ」(青土社)P193

ヴォルフガング・サヴァリッシュの演奏する終楽章アレグロに想うのは、フィッシャーの言う、あらゆるものが削ぎ落とされた、まさにこの「真実」であり、「絶対的な純粋なもの」である。

・J.S.バッハ:ブランデンブルク協奏曲第5番ニ長調BWV1050
・シューベルト:交響曲第3番ニ長調D200
・ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調作品60
ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮スイス・イタリア語放送管弦楽団(1964.6.4Live)

シューベルトのD200の、まるでベートーヴェンのような雄渾さ。第1楽章の豪快な序奏の後の軽快な主題が見事に有機的に響く。若きサヴァリッシュの勢い余る指揮に感動。
第2楽章の優しい歌は、ティーンエイジャーのシューベルトの夢。第3楽章メヌエットがうなる。そして、終楽章プレスト・ヴィヴァーチェは後年のハ長調交響曲を思わせる熟練の音楽。短い時間の中にシューベルトというエッセンスが詰まる。名演だ。

ベートーヴェンの変ロ長調交響曲の静かな足取りの内に内燃するパッション。いかにもサヴァリッシュらしい模範的な演奏。

 

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