エレーヌ・グリモーのベートーヴェン作品109&作品110ほかを聴いて思ふ

beethoven_4_30_31_grimaud148ちょっと前のエレーヌは、オーケストラの前では決して自己主張しなかった。指揮者の解釈に染まる分、演奏の出来は指揮者次第になってしまった。
少女時代、友達もできず、学校にも馴染めず、勉強も何もかもが上手くいかず、常に自分の場所を探していた彼女にとって、誰か別の人との共同作業というのは実に困難であったことだろう。

30歳の時の録音であるベートーヴェンの第4協奏曲は、美しく心動かされる瞬間はあるものの、どこかエレーヌ・グリモーの本領発揮とはいかない歯痒さがある。おそらくそれはクルト・マズアの陳腐な(?)表現力のせいもあるのかも。
強いて言うなら、静かに祈るように語りかける第2楽章アンダンテ・コン・モートのピアノの音調が、傷ついた自らをも慰めるかのような素晴らしさ。

ベートーヴェン:
・ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58(1999Live)
・ピアノ・ソナタ第30番ホ長調作品109(1999録音)
・ピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110(1999録音)
エレーヌ・グリモー(ピアノ)
クルト・マズア指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

後年の研ぎ澄まされた、そして内向的な独自の世界を現出させるのが2つの後期ソナタ。老練とも言えず、とはいえ若気の至りでもない堂々たる作品109と作品110。
中でもマクシミリアーナ・ブレンターノに捧げられた作品109の第3楽章アンダンテ・モルト・カンタービレ・エド・エスプレッシーヴォに見る「流れよ、わが涙」の如くの哀感はエレーヌの真骨頂。主題の優しさに心奪われ、第1変奏における軽快な自由自在さに心躍る。第3変奏の力強さと勢いにエレーヌの内に在る男性性を知り、第4変奏の幻想的な響きに今度は女性性の大らかさを見出す。そして、第5変奏における音の複雑な動きにベートーヴェンの天才を感じ、第6変奏のトリラーで魂が遠くへと飛翔する様にグリモーの天才を思う。最後に回想される主題の何という美しさ。

ちなみに、献呈者のいない作品110はことによると作品109以上。
第1楽章モデラート・カンタービレ,モルト・エスプレッシーヴォ冒頭、夢見るような主題提示におけるゆっくりとした足取りの出と、直後に閃く右手の旋律に天使の降臨を想う。ここだけを切り取ってもセンスに満ち、あまりに天才的。再現部の祈りの深さには言葉を失うほど。また、第2楽章アレグロ・モルトのエレーヌの激しい打鍵には、ベートーヴェンの自らの長い闘争が投影されるよう。そして、続く第3楽章序奏アダージョ・マ・ノン・トロッポの懐古と郷愁。これによって「いまここ」のフーガが際立つのである。何と透明で清澄な遁走であろうか。再現される「嘆きの歌」の得も言われぬ「空(くう)」の響き。和音によるクレッシェンドの後の再びのフーガの静謐さと怒号の対比に感無量。

今また新たなエレーヌの楽聖後期のソナタを聴いてみたい。おそらくもっと深みのある、神がかった演奏になることだろう。

 

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