岩城宏之指揮アンサンブル金沢 武満徹 「地平線のドーリア」ほか(1996.9録音)

今日、人類が核を保有する限り、私たちは真に解放されることは無い。たえず潜在的な危機感に脅かされ、無力感にとらえられる。日本は、表面的には、繁栄の賑わいをみせているが、それがなにか底浅いものに感じられるのは、政治があまりにもアメリカの強い影響下にあって自主性を失っていることと、私たちに潜む、核に対する危惧に由来しているからだ、と言ってもいい。よもや核戦争は起こるまいとは誰しもが思いながらも、そうした安心感すらもが核によって保たれているのだとすれば、あまりにも心許ない。やはり核は、この地上から廃絶されなければならないのだ。だが、あるひとたちはそれを現実性を欠いた考えだと言うだろう。しかし、核に対する惧れは、知的に理解されるというようなものではない。それはより本質的な、感じるこころの営みであり、愛に外ならない。
「申楽乃座—反核平和のための能と狂言の会」
「武満徹著作集3」(新潮社)P150

1991年8月3日、宝生能楽堂での公演パンフレットに武満徹が寄せた一節だ。核の問題に限ったことではない。それから30余年の時を経て、相変わらず日本は心許なく、否、より一層心許なく、だらしなくなっているように思われる。表面的な繁栄どころか衰退の様相を見せ始め、行き着くところまで行った感さえ漂う。いい加減に茶番を止めた方が良いだろう。今こそ自立すべきときであるが、おそらくそれはもはや無理難題だといえるのかもしれない。

武満の言葉は、そして音楽は神髄を衝く。暗い悲しみに満ちる音楽は、時に僕たちに叱責を与える。その一方で、日本が、日本人が世界に通用する、発起点としての役割を担う、世界平和の原動力とならんとする力に漲っていることを教えてくれる。静けさの中の爆発、か弱さの中の力強さ、彼の音楽に内在する魅力はさしずめそういうところだ。

21世紀へのメッセージVol.4
武満徹:
・弦楽のためのレクイエム(1957)
・地平線のドーリア(1966)
・ノスタルジア—アンドレイ・タルコフスキーの追憶に—(1987)
・ファンタズマ/カントスII(1994)
・ハウ・スロー・ザ・ウィンド(1991)
堀正文(ヴァイオリン)
クリスティアン・リンドバーグ(トロンボーン)
岩城宏之指揮オーケストラ・アンサンブル金沢(1996.9録音)

武満徹の音楽はほとんど呼吸のように無意識と意識の境界線をなぞるように響く。一旦その醍醐味が腑に落ちると、こんなにも自然体で易しい、慈しみに溢れた音楽があろうかと思われるくらい。ストラヴィンスキーが太鼓判を押したという「弦楽のためのレクイエム」の美しさ。

僕は、この「レクイエム」という題を、「メディテーション」としてもよかったのです。瞑想という言葉が神への排他的な専心を意味するように、一物に専念したい僕の気持ちが、この題を択んだのです。ですから特定の人の死を悼んでこの曲を書いたのではありません。しかし、僕はこの曲を書きながら、しばしば早坂文雄氏を憶い、その死を悼みました。
~PROC-1947/50ライナーノーツ

作曲者自身も内側に矛盾を抱えていたのだろうか、「弦楽のためのレクイエム」は結果的に人の死を悼む音楽と化したようだが、しかし、ここでの岩城の表現はどちらかというと瞑想に近い。
そして、昨年ついに実演に触れるという念願叶った「地平線のドーリア」は、録音だとやっぱり平板で、その真価まではなかなかわからない。
タルコフスキーを追悼した「ノスタルジア」は、もちろんタルコフスキー・フリークの僕にとってはご馳走だ。水という、命に、そして大自然に、大宇宙に不可欠の物質を見事に音化したような音詩には武満の慈愛が投影される(ただし、やはり武満の音楽は実演に触れてこそだと思うので本録音については多くを語ることは止める)。
「ハウ・スロー・ザ・ウィンド」については、12年前(東日本大震災の直前)に札響東京定期で触れたものだから、そのときの言葉にならない感激を思い出せるくらい。
いずれにせよ猛暑に武満徹。78回目の原爆の日に。

過去記事(2017年2月5日)

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