緻密に計算されたものなのか、それとも類稀な即興性の為す技なのか、それはわからない。
独特のテンポ感とアゴーギク。そして、絶妙なタメ。音楽は常にうねり、蠢く。これほど生気に満ちた楽の音は少なかろう。
自身は鬱性気質の持ち主で、世界に悲観し最後は自死を選んだわけだが、そんな人もひとたび音楽に向かうと俄然生きる喜びに溢れた。とはいえ、その根底にはいつも抑圧された内面が垣間見られたのだけれど。
何という希望。彼は、本当はもっと生きたかったんだ。
そんなことを想像させるグスタフ・マーラーの「巨人」交響曲。
ヘルベルト・ケーゲルが1979年にドレスデン・フィルと録音した演奏には、それこそジークムント・フロイトが説いたエロス(性愛)とタナトス(死)の一体性が感じられ、それは僕たちがこの世に生を得たその瞬間から実は死に向かって進んでいることと、性の欲動こそが生きることへの愉悦へと結びつくものであることを如実に物語る。
・マーラー:交響曲第1番ニ長調「巨人」
ヘルベルト・ケーゲル指揮ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団(1979.11.5-8録音)
どの楽章のどの瞬間を切り取ってみても、いかにもケーゲルらしい「仕掛け」に驚くばかり。といって決してエキセントリックな解釈ではなく、実にマーラーの素晴らしさを助長するもの。第3楽章のボヘミア民謡「兄弟マルティン」の哀感、続くオーボエの有名な旋律の生き生きとした音階、いずれもドレスデン・フィルの奏者の底力を示すものだと思うが、それ以上にケーゲルの見事な統率力に舌を巻く。
白眉は終楽章。冒頭のシンバルの炸裂、そして金管群の阿鼻叫喚からめくるめく嵐のような楽想が僕たちを襲い、打楽器の有機的な轟きが心を癒す。その後一旦静まって奏される弦楽器による懐かしい旋律は、ヘルベルト・ケーゲルの生への憧憬。この粘り気のある歌い方こそがこの人の真骨頂なのである。
そうなのだ!作品は仕上がった!いま君を僕のピアノの脇に呼んで、聴かせたいものだ!
おそらく唯一君一人だけだ、この曲の中の僕が未知の新しい存在でないとわかっているのは。他の人たちにはびっくりすることがいくつもあるだろう!それほどとてつもないものになってしまった―まるで山の早瀬のように僕の胸中からほとばしり出るがままに!
(1888年3月付、フリードリヒ・レーア宛)
~ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P75
マーラーの胸が躍っている。作曲家にとっていかに自信作であり、いかに斬新な試みであったのか。
この時のマーラーの胸中をまさに体現する音楽こそがケーゲルとドレスデン・フィルによる演奏なのだと僕は思う。
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ケーゲルは、1990年、東ドイツ消滅とともにピストル自殺を遂げました。今まで信じていたものが一瞬にして崩れたことに対して、信じられない思いだったかもしれません。