メンゲルベルク指揮ACOのブラームス交響曲第1番(1940.12.13Live)を聴いて思ふ

brahms_1_mengelberg30余年前の僕にはほとんど理解できなかった代物らしい。おそらく全曲を通して聴いた記憶がない。棚の奥底に眠るこのアナログ・レコードのジャケットの中に、昭和58年6月29日の大学生協の「レコード発注書」が入ったままになっていたくらい。
懐かしい匂いのするレコード盤に恐る恐る針を下ろしてみた。

第1楽章冒頭の凄まじいティンパニの轟音とうねる浪漫的な弦の響きから、まさしくこの人の演奏だと納得した。僕はこの演奏を初めて聴いたのだろうか・・・?

ウィレム・メンゲルベルクの、手兵アムステルダム・コンセルトヘボウとの1940年12月13日の演奏会の記録。もしも仮にこの実演に触れていたらならば、僕は焼け焦げていたかもしれない。
何より第2楽章アンダンテ・ソステヌートの、あまりに情緒的でこぶしの効く濃密な音楽に、ブラームスは泣いているのかと思ったくらい。それほどに冒頭の主題からメンゲルベルクの感情移入は激しく、おそらく聴衆を忘我の彼方に誘ったことだろう。(今となっては思わず吹き出してしまいそうな)ヴァイオリン独奏の濃厚なポルタメントにみる愛の法悦と、それに応答するホルンの柔らかい歌に、これこそかのリヒャルト・ワーグナーを凌ぐ(大岡昇平氏のおっしゃる)「性交音楽」なのではないのかとさえ思ったほど。

ブラームス:交響曲第1番ハ短調作品68
ウィレム・メンゲルベルク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(1940.12.13Live)(アナログ盤PC-5552)

第3楽章ウン・ポコ・アレグレット・エ・グラツィオーソの中間部で不自然にテンポを上げ、金管を咆哮させる様はいかにもメンゲルベルクの常套だが、少々行き過ぎの感あり。
極めつけは終楽章アダージョ―アレグロ・ノン・トロッポ・マ・コン・ブリオ!!序奏の、沈潜してゆく精神に対して、主部での猛烈な爆発は、いかにも抑圧されしブラームスの体現。ここは確かにメンゲルベルクの表現がものを言う。
主部に入る直前の、ねばりにねばるホルンによるクララ讃歌の雄渾な響きに感嘆、例の有名な第1主題が現れた時の感動と言ったら・・・。それにしてもここだけでもギヤチェンジが激しく、そのテンポの揺れについていくだけでも相当な心の準備がいる。その後も音楽は唸り、うねり、最後のコーダに至っては指揮者も演奏者も一体となって聴衆を煽り、ブラームスの世界に埋没する。緊張と弛緩、膨張と収縮の連続。
不自然と言われようが、機械のようだと言われようが、音楽は生物の如く活きている。
終演後の聴衆の熱狂的拍手が、この日の演奏がただならぬものでないことを物語る。

彼女は畏れとも恐怖とも言えるような驚嘆の叫びをあげて彼にしがみついた。彼は彼女をしっかり抱いた。だが無言だった。何も言おうとしなかった。彼女は彼にもっと身を寄せた。それはただ彼の肉の驚異に近づきたかったからだった。そして彼の全き、不可解な静けさの中から、彼女は再び男根が徐々に、ものものしく、満ち膨れはじめたのを感じた。またも力が湧いてきたのだった。彼女の心は一種の畏怖の念で融けていった。
D.H.ロレンス著/伊藤整訳・伊藤礼補訳「完訳チャタレイ夫人の恋人」(新潮文庫)P321-322

強いて言葉にするなら、こんな感じだろうか・・・(本当はこの直前の露骨なシーンがより相応しいが、憚られるので)。

 

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