大司教ヒエロニュムス・コロレドとの軋轢。
1775年の作といわれる「ミサ・ロンガ」K.262に、ザルツブルク時代のモーツァルトの、抑圧されし精神の解放を垣間見る。
有給の宮廷楽師長の職にあったモーツァルトにとって、交響曲や教会音楽を書くことが仕事であったことは事実だが、職務を遂行したという意味以上のものをこの作品に感じるのは僕だけだろうか。
当時より音楽が単に心の癒しだけでなく、神とつながるひとつの方法であったことは間違いなかろう。モーツァルトにとって作曲活動は、教会のための作品を生み出すこと以前に自身の心を解放し一切とひとつになるための手段だったよう。
モーツァルトが決して信仰に疎かった人ではないことは、その崇高な美しい楽想溢れる諸作品を聴けば明らか。この人は神という対象が外にあるのでなく、自身の内に在ることを(無意識に)知っていた(と僕は思う)。
キリエもグローリアも快活明朗。何よりアーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクスのアタックの激しい躍動的で清澄な音響がものをいう。また、転調を伴ういくつかの明確な終止のあるクレドには、いかにもモーツァルトらしい堂々たる音楽が刻まれる。4人の独唱も、そして合唱も実にきれい。
さらには、短いサンクトゥスの、その名のごとく感謝に満ちる聖なる味わい。ここではカメラが360度転回し、ザルツブルク教会の内部を映し出す。ベネディクトゥスもさることながら、何より終曲アニュス・デイでの、決して評価の高いとはいえない単純な旋律「ドナ・ノービス・パーチェム」を起伏豊かに聴かせるアーノンクールの職人技に感動。
ザルツブルク音楽祭2012 オーバーチュア・スピリチュエル
モーツァルト:
・ミサ・ロンガハ長調K.262 (246a)
・聖体の祝日のためのリタニア変ホ長調K.243
シルヴィア・シュヴァルツ(ソプラノ)
エリーザベト・フォン・マグヌス(メゾ・ソプラノ)
ジェレミー・オヴェンデン(テノール)
フローリアン・ベッシュ(バリトン)
アルノルト・シェーンベルク合唱団
ニコラウス・アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス(2012.7.29Live)
続いて「聖体の祝日のためのリタニア」。何と20歳ほどのモーツァルトの手によるものだが、前述のとおり大司教との関係悪化による精神的苦痛を超え、当時の彼の音楽的技量の充実ぶりがどれほどのものだったのか驚嘆せざるを得ない出来。
例えば第5曲「トレメンダム」は、後のレクイエムなどに通じるモーツァルトの内にあるデモーニッシュな側面が表出する素晴らしい音楽で、静寂と強音の対比を見事に描くアーノンクールの巧さに痺れる。あるいは、第8曲「ピグナス」におけるバッハのそれを超越するフーガの崇高さ!
モーツァルトはやっぱりモーツァルト。
しかし明るいだけではなく、父あての手紙には、貴族や聖職者へのいらだちも書かれ、また死の意識が強く彼をとらえていたことも告白されている。ただ彼の場合、死は、暗く絶望へと引きずりこむものではなく、生きることの大切さを、逆に、くっきり照らしだす存在だった。
~辻邦生著「美神との饗宴の森で」(新潮社)P139
アーノンクールのモーツァルトは、まさに「生きることの大切さ」を教えてくれる。
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