ピョートル・チャイコフスキーが7歳の時に書いたフランス語の詩を読むと、天才というのは生まれながらに一般とは異なった感受性を持ち、しかも感じ受け取ったことをとても魅力的に表現し得る、そういう能力を与えられた人のことを指すのだとわかる。
その上、他の天才たち同様、彼は大宇宙への信仰というものを忘れない。
「宇宙」と題する一編の詩。
永遠なる我らの神よ、この全てを創られたのは汝である。子供よ!見よ、この植物はこのように美しく、このバラも、このくわがた草も、このように美しい。輝かしい太陽が全世界を照らしている。この世を創られたのは、この存在である。月と星とが我らの夜を照らしている。汝がなければ、植物も育たず、この美しい湖の波よ、これがなければ、我々は死んでいたことだろう。
~森田稔著「ロシア音楽の魅力―グリンカ・ムソルグスキー・チャイコフスキー」(東洋書店)P154-155
世界をマクロ的に捉える目、そして母国語でないフランス語を駆使する挑戦。チャイコフスキーは子どもの頃から「美」とは何で、「表現する」とは何かがわかっていたようだ。
エーリヒ・クライバーが録音した第4交響曲と第6交響曲「悲愴」を聴いた。
古びたモノラル録音から壮絶なパッションが聴こえた。理想的なテンポで進軍する「悲愴」第1楽章主部アレグロ・ノン・トロッポにおける感情の爆発が、僕たちの感性を刺激する。とはいえ、決して感情に溺れ過ぎることなく、しかも即物的でもなくとてもバランスのとれた、音楽しか感じさせない見事な表現。
なるほど、息子カルロスがこの作品をレパートリーに入れようとしなかった理由がこの楽章を聴くだけでもよくわかるというもの。造形的にも、音楽的にも完璧なのである(これで録音がもっと良ければ不滅の名演奏になっていたことだろう)。
また、第2楽章アレグロ・コン・グラツィアの流れるような美しい旋律に、少年チャイコフスキーが夢想した宇宙を思った。
そして、第3楽章アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェにおける舞踏による人間讃歌に心動き、終楽章アダージョ・ラメントーソの文字通り嘆きの歌に涙する。低弦のうねりと高弦の叫びが交錯しつつ音楽がクライマックスを築く中、エーリヒは何を想うのか。
この交響曲には形式的に新しいものが多く、中でも終楽章は騒がしいアレグロではなく、反対に長く引き伸ばされるアダージョになる。
(1893年2月11日付、ウラディーミル・ダヴィドフ宛手紙)
~同上書P242
チャイコフスキー:
・交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」(1953.10録音)
・交響曲第4番ヘ短調作品36(1949.7録音)
エーリヒ・クライバー指揮パリ音楽院管弦楽団
交響曲第4番第1楽章アンダンテ・ソステヌート、冒頭の金管による主題提示の暗い雰囲気はまるでドイツかロシアのオーケストラの響きのようにも聴こえる。ここでは音楽は時に絶叫し、時にささやき、うねる。何と厳しい・・・。
そして、第2楽章アンダンティーノ・イン・モード・ディ・カンツォーナの歌謡的な旋律が懐かしく奏されるとき、聴く者は異国に誘われる。
さらには、白夜に在る大自然の音を醸す第3楽章スケルツォ主部と、人々が戯れるトリオの対比にエーリヒの表現の巧みさを痛感。何より白眉は終楽章アレグロ・コン・フオーコ。堂々たる足並みで、確信をもって進む怒涛の鬼気迫るエーリヒの音楽が僕たちを翻弄するのである。
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