

マルセル・プルーストからルキノ・ヴィスコンティへ。
愛想を言ったり、機知にとんだとりいるような冗談を言ったりしながら、ソクラテスがパイドロスに憧れと美徳について教えをたれていた。ソクラテスは、感じやすい人間が永遠の美の似姿を見たときにうける、ある激しい驚きについて語り聞かせている。美の似姿を見ながら畏敬の念をいだくことができず、美を考えることもできない、不純な悪しき者たちの欲望の数々についても語り聞かせている。神に似た面ざし、完全な肉体に出会ったとき、高貴な人間を襲う神聖な不安について語り聞かせている。そのとき、高貴な人間は震え戦き、我を忘れ、ほとんどどのほうを見ることもできずに、その完全な美をもつひとを崇拝し、もしほかの人間に愚かしいと思われるのを恐れなくてもよいときには、偶像に犠牲を捧げるように犠牲を捧げるのだ、と話して聞かせている。なぜならパイドロスよ、ただ美だけが愛するに価すると同時に眼に見えるものだからだ。よく聞くがいい、美こそはわれわれが感覚的に受け入れ、感覚的に耐えることのできる、精神的なもののただひとつの形式だからだ。
~トーマス・マン/圓子修平訳「ベニスに死す」(集英社文庫)P81-82
美を感得できることが重要だ。
同様に、三島由紀夫はギリシャに旅した時の思いを、感動を次のように書いている。
巴里で私は左右相称に疲れ果てたと言っても過言ではない。建築にはもとよりのこと、政治にも文学にも音楽にも、戯曲にも、仏蘭西人の愛する節度と方法論的意識性(と云おうか)とがいたるところで左右相称を誇示している。その結果、巴里では「節度の過剰」が、旅行者の心を重たくする。
その仏蘭西文化の「方法」の師は希臘であった。希臘は今、われわれの目の前に、この残酷な青空の下に、廃墟の姿を横たえている。しかし建築家の方法と意識は形を変えられ、旅行者はわざわざ原形を思いえがかずに、ただ廃墟としての美をそこに見出だす。
オリムピアの非均斉の美は、芸術家の意識によって生れたものではない。
しかし竜安寺の石庭の非均斉は、芸術家の意識の限りを尽くしたものである。それを意識と呼ぶよりは、執拗な直感とでも呼んだほうが正確であろう。日本の芸術家はかつて方法に頼らなかった。かれらの考えた美は普遍的なものではなく一回的(einmalig)なものであり、その結果が動かしがたいものである点では西欧の美と変りがないが、その結果を生み出す努力は、方法的であるよりは行動的である。つまり執拗な直感の鍛錬と、そのたえざる試みとがすべてである。各々の行動だけがとらえることのできる美は、敷衍されえない。抽象化されえない。日本の美は、おそらくもっとも具体的な或るものである。
「アポロの杯」
~佐藤秀明編「三島由紀夫紀行文集」(岩波文庫)P134-135
結果的に日本の美の賞賛であるが、しかし、ギリシャの非均斉にみる、自然がもたらした偶然の産物ほど美しいものは他にないように僕も思う。
所詮、芸術などと言うのは人間の意志の下、計画的に生み出されたものに過ぎない。
けれども、天人合一の下で創造された、天才たちの創造した芸術は大自然に負けじ劣らず別格だ。
中でも永遠不滅の、普遍の音楽よ。
話題は変わるが、エステルハージ家での奉公を終えてのロンドン楽旅は、(均斉の権化たる)ハイドンに膨大な利益をもたらしたという。
60歳の時点で、ハイドンの貯金は2,000グルデン程度にすぎなかったというが、イギリスで得た報酬の総額はおよそ24,000グルデン。そこから旅費や滞在費に充てた9.000グルデンを引いても、およそ15,000グルデンもの大金が手元に残った計算になる。もともとが質素を好む性格である。たとえ残りの人生をフリーランスの作曲家として過ごしたとしても、十分なゆとりをもって生活することはできたはずだ。
それでもハイドンは、エステルハージ家に戻る道を選んだ。そこには、長年仕えてきた宮廷への恩義以上に、決して豊かとはいえない暮らしをしていた親族を支えるために、安定した収入を確保しておきたいという現実的な理由があった。ハイドン家の長男、そして一族の出世頭としての責任感は、ロンドンで自由を満喫していたときですら消えることはなかったようで、1791年にゲンツィンガー夫人に宛てた手紙のなかでもこのように綴っている—「わたしにとって自由はただただ好ましいものですが、帰国したらまたエステルハージ侯爵の宮廷に奉仕したいと思っています。単に貧しい親族のためだけにですが。」
~池上健一郎著「作曲家◎人と作品 ハイドン」(音楽之友社)P133-134
仕事にもプライベートにも誠心誠意というのがヨーゼフ・ハイドンの信条のようだ。
彼の革新は、そういう思いをベースにしながら自己錬磨せんとした賜物だったのだと思う。
ハイドンがその扉を開いた弦楽四重奏というジャンル(当初はディヴェルティメントと呼ばれていた)は当初あくまで機会音楽の域を超えるものではなかったが、後年、それこそこのジャンルを崇高な芸術へと育て上げたのもハイドンの功績だった。
ハイドンが完成させた最後の6曲セットである「作品76」は、大作のオラトリオ《天地創造》の作曲中だった1797年に完成を見ている。
~同上書P199
ヨーゼフ・エルデーディ伯爵の委嘱だと言われる弦楽四重奏曲は、すべてが驚嘆の境地に達している傑作揃いであり、そのおかげでベートーヴェンが一層の革新をもたらすことが可能になったともいえるだろう逸品たち。
老いてなお不屈の創作力を示すハイドンの天才。
おそらくそれまでのすべてのセンスを超え、一層の革新をもって作曲された6曲の弦楽四重奏曲はあまりに美しい。
何より均整のとれた絶妙なバランス感覚、同時に常に新たな息吹を感じさせる音調。
さらには親しみやすい旋律の三位一体。
ハイドンは語る。
「世間から隔絶されていたので、独創的にならざるをえなかったというわけです」
「皇帝」と称される四重奏曲の、「皇帝讃歌」を主題とした第2楽章ポコ・アダージョの変奏曲は、幾度聴いても感動する代物。あるいは、「日の出」の第1楽章アレグロ・コン・スピーリトの主題も僕の愛するもの。それらには、長きにわたって仕えたエステルハージ家への誠心誠意と同等の、特別な言葉にするなら「慈愛」がある。
作品76-5の第2楽章ラルゴ・カンタービレ・エ・メストも息の長い祈りの音楽であり、聴く者はここで安息を得る。そして、作品76-6の第2楽章はファンタジアとされ、ここでは途中フガートに転じ、ハイドンの文字通り独創性を示す音楽をアマデウス四重奏団は生命力をもって、思いを込めて表現する。






