
三島由紀夫は巴里が好きではなかったそうだ。
巴里の春は遅々として進まない。3月の上旬はむしろ暖かかった。下旬から沍返って、一昨日はしばらく雪が降った。雪の前後はひどく寒かった。
ここのパンシオンへ移って以来、2週間というもの殆ど晴天を見ない。一日二日晴れた空を見たことはある。それも午後になると曇るか、却って寒さのまさる前触れであったりするか、である。そういう寒い晴天にも、公園の芝生が一冬のあいだ鮮やかな緑を失わず、雲も恰度夏雲のような形の雲があらわれていたりするので、その対象が異様な感じを与える。芝生の暖かい緑を見ていると、この寒さは私一人の寒気ではないかとさえ思われて来る。
(フォンテエヌブロオへのピクニック 3月30日)
~佐藤秀明編「三島由紀夫紀行文集」(岩波文庫)P120
今も昔も自然のあり方は変わらない。移り気であり、人を食ったような、想像もつかない、人智を超えた動きに終始する。それでも、必ず春は来るのである。
3月は僕の誕生月だ。
それゆえかどうなのか、今のこの時期はとても好きだ。
ワーグナーと離反した後、ニーチェが愛した歌劇「カルメン」。
あれは確かに傑作だと思う。
再びシャルル・デュトワ。
10年近く前、NHK交響楽団定期で聴いたコンサート形式の「カルメン」は素晴らしかった。

ジョルジュ・ビゼーは36歳で亡くなった(1875年6月3日のこと、今年は没後150年)。
この夭折の天才の創造力に言葉がない。
劇付随音楽「アルルの女」も歌劇「カルメン」も美しい旋律の宝庫。
壮年期のデュトワの指揮は、溌剌とした中に官能があり、実にエロチック。
内から湧き上がる情熱が音楽を包む。それは、(特に)モントリオール交響楽団との録音すべてに当てはまることだが、中でもビゼーのこのアルバムは随一だ。
悲しみも喜びも、苦悩も楽観も、俗世間のすべてがここに刻まれ、これまでも繰り返し聴いてきたが、たった今も感動の渦の中に僕はある。
この音楽は私には完全なものと思われる。それは、軽やかに、しなやかに、慇懃にやってくる。それは愛嬌があり、それは汗をかくことがない。「優れたものは軽やかであり、一切の神的なものは華奢な足で走る」、これが私の美学の第一命題である。この音楽は意地わるで、洗練されており、宿命論的である。しかもそれはあくまで大衆的であり—それは、個々人の洗練さではなく、種族の洗練さをもっている。それは豊かである。それは精密である。
~原佑訳「ニーチェ全集14 偶像の黄昏/反キリスト者」(ちくま学芸文庫)P288-289
ワーグナーとの対比ではなく、純粋にビゼーの「カルメン」という点だけを鑑み、ニーチェの言を僕も是とする。





