
それでもわたしには、内省や感情吐露に中断されることのない、この飾り気のない記述の究極の真実味は、コンサートで強烈に感じたクレンペラーの決定的要素を共有しているように思えるのです。
彼は自分が感じたことを聴衆に伝えるのではなく、作品自体を伝えるのです。
(ヴィリー・シュー、1965年)
~E・ヴァイスヴァイラー著/明石政紀訳「オットー・クレンペラー―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」(みすず書房)P221
学生時代、音楽の趣味が共通の輩が何人かいたが、そのうちの一人に僕は魅力あるロック音楽の世界に誘ってもらった。その代わりといっては何だが、僕はその彼を美しきクラシック音楽の世界に誘った。
インターネットも携帯電話もない時代。
どんな風にして情報を収集していたのか、今となってはほとんど思い出せないが、音楽については雑誌などから、場合によっては国会図書館などに赴いて貴重な資料を見たりしていたのだと思う。
その彼はいつの間にかクラシック音楽にはまっていた。
そして、特にヨハネス・ブラームスの音楽がお気に入りになったようで、久しぶりに会ったときにオットー・クレンペラーが指揮するフィルハーモニア管弦楽団との全集レコードを手にしていて、その素晴らしさを熱く語ってくれた。
年齢を重ねれば、若き日の懐かしい思い出がまざまざと蘇ってくる。
あの日からすでに40余年が経過する。
渾身の交響曲第4番!!
(あくまで自然体だが、後半になるにつれ白熱する名演奏に言葉を失う)
クレンペラーのブラームスは思ったより遅くなかった。
重厚、あるいは鈍重さを証とするクレンペラーにあって意外にもブラームスは正統派の、外連味のない演奏だった。(強いていうなら、第3楽章アレグロ・ジョコーソは、ための深い、いかにもクレンペラーらしい表現)
終楽章パッサカリア(アレグロ・エネルギーコ・エ・パッショナート)の絶妙な間と呼吸に唯一無二の天才を僕は垣間見る。
クリスタ・ルートヴィヒを独唱に据えた「アルト・ラプソディ」の「抜け感」が圧倒的。
ゲーテの「冬のハルツ紀行」から抜粋された詩は、いかにもブラームスの座右の銘たる「自由なれど孤独に」を思い起こさせるもので、当時のゲーテの孤高の(孤独の)心情を見事に反映した音楽が、若きルートヴィヒの深みのある声を得て一層深い境地を体現しており、実に素晴らしい。
そういえば、学生の頃、僕は「悲劇的序曲」がわからなかった。
前述の輩は、こんな佳い曲のどこがわからないのか、クレンペラー盤を参考にその素晴らしさを訥々と語ってくれた。
古き良き思い出。



