フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル ブラームス 交響曲第4番ホ短調作品98ほか(1949.6.10Live)

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは戦時中ナチス・ドイツに協力したという嫌疑をかけられ、戦後様々なボイコットを受けた結果、音楽活動を制限されたことは有名な話だ。

シカゴ事件でフルトヴェングラーは当惑させられ、落ち込んだ。ナチスを自認する他の連中が戦後も仕事を続けたときには反対がなかったのに、なぜ自分にだけ常軌を逸した敵意が向けられているのか、まったく理解できなかった。しかもあのヴァルターまでもが。ブルーノ・ヴァルターは世紀の変わり目以来フルトヴェングラーにとって師匠のような存在だった。
サム・H・白川著/藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代訳「フルトヴェングラー悪魔の楽匠・下」(アルファベータ)P196

確かに慈悲の人ワルターにしては短絡的な判断にも思えなくない。
しかしながら、1949年1月のフルトヴェングラーとワルターの往復書簡をひも解くにつけ、それぞれの立ち位置や文化的価値観の相違が招く、解決に至るにはほど遠い問題(課題)がその内に座していることがわかって面白い。

どちらが正しいのか?
どちらも正しく、またどちらも間違っているのだということだろう。
人間の性質、思考などなどは、心眼、真の慈眼を機能させない限り、本当に歩み寄ることは不可能だ。

年初から揉めに揉める音楽家同士の闘いの中にあって、当時のフルトヴェグラーのいわば「怒り」の心境を如実に顕すコンサートがあった。手紙から半年後、ドイツはヴィースバーデン・ヘッセン州立劇場での記録。

おそらく同年5月22日に逝去したハンス・プフィッツナーの追悼を込めてプログラムに入れられたものだろう、歌劇「パレストリーナ」からの前奏曲たちはいかにもフルトヴェングラーらしい濃密な表現に包まれ、音楽の持つ宗教的側面とともに情念ほとばしる、俗的側面が時に強調され、天国と地獄を同時に体験できるような壮絶さに満ちる。

ゲッダ フィッシャー=ディースカウ リッダーブッシュ クーベリック指揮バイエルン放送響 プフィッツナー 歌劇「パレストリーナ」(1973.2録音)

「パレストリーナ」の3つの前奏曲のうちの真ん中の曲、それは教会権力と世俗権力の闘いをあらあらしく、重厚に、まるでトリエント公会議の舞台裏を眼前にするごとく擬音的な、華麗な色彩を以て—朗々とした金管、脅しつけるような木管、エネルギッシュな弦—性格づけているのだが、それを耳にした者は、この天才的な指揮者が、このしばしば騒々しい曲の全体からいかに多くの創造の炎を引き出しえたかをきき逃すことはありえぬであろう。怒りにみちた、不機嫌であらあらしい感情と初原的な暴力を以てフルトヴェングラーは、この「闘いの音楽」の中に、われわれ現代人にむしろあるはるか遠くへとおしもどす道をもたらすのである。それに反して第1幕と第3幕の前奏曲においては、別な質が現われる。第1幕の前奏曲においては、ヴェールでおおわれたような五度および四度の和声進行の柔らかい優美さが現われる。それによって、奇妙に織りなされた、古代的響きをもって、トリエント公会議という素材の世界が表わされるのである。ある楽観的な印象が示唆される。鈍色の光が、教会のステンドグラスをとおして、宗教的背景と教会音楽家パレストリーナの心的な状況とを同様に主観的に写し出している渇望をてらす。すなわちそれは、広大な丸天井と香の香りにたちこめる聖堂の荘厳な音調なのである。そして悲劇的な第3幕への前奏曲においてもそれは再びとり上げられ、激しくたぎる挿入部によってつかの間中断されるのである。
(ペーター・フールマン博士/高橋順一訳)
~日本フルトヴェングラー協会WFJ4-5ライナーノーツ

第2幕前奏曲が歌劇の核心を示し、ここでのフルトヴェングラーの演奏も一つの山を築いている。宗教戦争の、否、キリスト教の中でもいわゆる宗派の争いを是正しようと立ち上がったものの結局溝を深め、対立が激化するきっかけを作ったような長期にわたる会議の中でパレストリーナは何を思うのか?
人間の思考や価値観のぶつかり合いは終わることを知らない。正統性を知らしめんとすればするほど平行線を辿るという現実。それはまるで当時のフルトヴェングラー自身の心境と同期するかのようだ。

トスカニーニ指揮NBC響 ワルター指揮ニューヨーク・フィル フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル モーツァルト 交響曲第40番K.550

そして、ウィーン・フィルとのスタジオ録音とはまったく異質の、これぞフルトヴェングラーのモーツァルトだといわしめる渾身のト短調K.550!! 第1楽章モルト・アレグロ冒頭から音楽に内在する熱量の次元が違う。聴衆がいるときのフルトヴェングラーの演奏はそうでないときと比較してこれほどにも違うのかという典型だが、それはやっぱりその年の、シカゴ響問題から生じた自身の苦悩をはけ口を求めて(?)コンサートだったのだろうということと結びつく。
フールマン博士は書く。

悲劇的なものの深い核心とフルトヴェングラーの固有かつ劇的な衝迫がもちろんのこと、全ての楽章において出会うのである。彼は直観的に、この曲のうちにあるはるか未来に向けられた響きのねじれを、第1楽章の展開部における木管の対抗声部の不協和音の響きを見出している。そしてフルトヴェングラーは、第1楽章において呈示部の反復なしに展開部に突入してゆくのである。もちろん今日緩徐楽章の叙事的広がりと悲愴性を浮び上がらせる表情は感動的である。又そこではなによりも、32分音符の対位法的なたわむれがぬきんでて柔かく、重苦しさの無い、新鮮さにみちたものであるかもしれない。
~同上ライナーノーツ

邦訳が今一つ当を得ないが、ベートーヴェンのハ短調交響曲の嚆矢たる悲劇性がフルトヴェングラーのこのト短調にはあるということを言いたいのだろうと思う(闘争から勝利へ、あるいは暗から明へ)。

その上、ブラームスがまた凄演!!

フルトヴェングラーの能力がもっている清々しさと高さがどのようなものであり、彼の催眠的効果が公衆のみならず専門家に対してもどのような効果を与えたのかが、たやすく明らかになる。・・・最大限の静ひつさと崇高な、ある意味ではラプソディックな力を以て彼は、この巨匠の作品のもつひどくもろい部分と集合体の全体を、むしろたえざるテンポの変動において再度一個の統一された全体形式へと統合するべく、他のどの演奏よりも壮麗に展開するのである。人は信ずるだろう。フルトヴェングラーのやり方以外のものがこの作品にふさわしいものとして現われることはほとんどありえないだろうことを。
~同上ライナーノーツ

第3楽章アレグロ・ジョコーソで金管が思わずひっくりかえる箇所もあり、オーケストラとしては万全でない点も多々指摘されようが、ほとばしる生命力という点でこの演奏を凌駕するものは少ない。終楽章アレグロ・エネルギーコ・エ・パッショナートの興奮は相変わらず(特に第16変奏以降)。部分最適と全体最適、綿密に構成された音楽と、即興的な、その場限りの熱狂が組み合わさって初めて聴衆に途轍もない感動を与えるのだということをフルトヴェングラーは教えてくれる。

なお、当日はモーツァルトとブラームスの間で、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲル」が演奏されたようだが、録音は失われてしまったらしい。

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