
ザルツブルクからウィーンに出てきたヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが八面六臂の活躍をし、その後急激に人気を落とした1780年代。
当時は、社会情勢も大変革の時代だった。
女帝マリア・テレジアの崩御によりヨーゼフ二世が即位。
ヨーゼフ二世は、農奴解放令や宗教寛容令、それに教育改革と、これまでウィーンと帝国内に根強く残っていた中世的な制度や思想を一掃するための政策を次々と打ち出していった。
~池上健一郎著「作曲家◎人と作品 ハイドン」(音楽之友社)P84
そういう状況の中、ハイドンもモーツァルトも生きたのである。
時期や期間は限られていたものの、ウィーンへの「帰省」はハイドンにとって音楽的にも精神的にも欠かせないものだった。最新の音楽に触れたり、自作に対する聴衆の反応を肌で感じたりできるのはもちろんのこと、音楽を愛するウィーンの貴族たちと関係を築く貴重な機会でもあった。また、当地のすぐれた音楽家たちとの交流は、隔絶された環境に身を置いていたハイドンにとっては大きな喜びであった。
~同上書P87
中でもモーツァルトとの交流は、互いに刺激を与え、それぞれに傑作の創造をもたらすことになった。モーツァルトはハイドンに献呈された6曲の弦楽四重奏曲をハイドン同席の下披露した。そして、例の有名な言葉を父レオポルトに発したのである。

ひとりの正直な人間として神に誓って申し上げますが、おたくの息子さんはわたしが見知っているなかでもとびきりすぐれた作曲家です。(よい)趣味を持っているうえに、膨大な作曲の知識まで身に付けているのですから。
~同上書P88
天才と天才の類稀なる邂逅に僕は感動を覚える。
ちなみに、1787年にはプラハの劇場で上演するに相応しい作品を提供してほしいという要望に対し、ハイドンはモーツァルトを手放しで称賛し、推薦している。
わたしが理解したり感じたりする限り、モーツァルトの作品は深遠で、音楽的な理性とすぐれた感受性を備えています。ですので、音楽を愛するすべての人、とりわけ著名な方々の心に、その類まれな作曲ぶりを刻み込みたいくらいです。そうすれば、この宝石を自分の城壁内に持っていたいと、各国が奪い合うでしょう。プラハはこの素晴らしい人物を確保しておくべきです—もちろん報酬も払うべきですが。
~同上書P90
自己への謙遜と同時に他者への大いなる賞讃は、当時のハイドンの心の余裕を表わすようだ。1780年代に生み出された傑作の一つをマルタ・アルゲリッチが演奏する。
・ハイドン:ピアノ協奏曲ニ長調Hob.XVIII:11(1784)
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
イョルク・フェルバー指揮ハイルブロン・ヴュルテンベルク室内管弦楽団(1993.1録音)
第1楽章ヴィヴァーチェの煌めくピアノはアルゲリッチならでは。度が過ぎない、謙虚さを秘めた上質の音楽にヨーゼフ・ハイドンの喜びと充実を思う。
続くワンダ・ランドフスカによるカデンツァを披露する第2楽章ウン・ポコ・アダージョの瑞々しい、時に哀感を示す音楽に、抜けた神々しさを僕は感じる(これぞマルタ・アルゲリッチの神業!)
そして、終楽章ロンド・アルンガレーゼ(アレグロ・アッサイ)の躍動は、いかにもウィーンで活躍する自身への鼓舞だろう。否、自身だけに限らず、天才モーツァルトすらをも包み込む優しさ。

