日常の言動はともかくとして、クロード・ドビュッシーの思考、特に音楽芸術に関しての審美眼については桁外れの才能であり、しかも彼は遠く未来までを見通すことのできた人だった。
例えば、リヒャルト・ワーグナーのこと。
ヴァーグナーの音楽にあって、「パルジファル」の第3幕への前奏曲と聖金曜日のエピソード一切ほど、晴朗な美しさに到達したものは、ほかにない。それでも実を言うと、ヴァーグナーが人間性から抽きだしていた特殊な教訓は、この劇に登場する人物の何人かの態度に、やはりあらわれている。
~平島正郎訳「ドビュッシー音楽論集」(岩波文庫)P176-177
その部分(=「パルジファル」の装飾的な部分)には、どこだろうと、至上の美がある。くらべるものなく思いもよらぬ、高貴で力にあふれた、管弦楽の響きが、聴かれる。それは、音楽のゆるぎない栄光のために建てられた音の記念碑の、最も美しいもののひとつである。
~同上書P178
なるほど。ドビュッシーはワーグナーの音楽そのものを否定したのではなかった。舞台神聖祭典劇と名乗る劇中の登場人物のあまりに俗っぽい描き方(僕はそうは思わないが)に対して否を申し立てたのであった。
さらには、長男ジークフリートを評してかく語る。
父親とまるでそっくりではあるが、ただし原画にある天才の仕上げのひと刷毛を欠いた複製だ・・・(中略)この曲(「ジークフリート牧歌」)は彼に、自由でよろこびにみちた日々をおくれ、栄光への気苦労と恋しい欲望とに追われるな、と奨めていた。彼の名をささやき、今後も消えることのない光で、それをつつんでいた。なぜ彼は、新しい光にあこがれたものだろう?このさき冴えわたることもなく、けっきょくリヒャルト・ヴァーグナーという親の光に、立ちまさるべくもない光であろうに。しかも私に言わせれば、この親の光は光以外に何ひとつ、彼には羨ましいものがない。
~同上書P183-184
実に手厳しい。しかし、それは嘘偽りのない事実でもある。歯に衣着せぬ物言いこそがドビュッシーそのものであるならばブーレーズの演奏は真に的を射ていると思った。
ピエール・ブーレーズのドビュッシー集を聴いた。
輪郭のはっきりした、いわばドビュッシー独特の「浮遊感」をできる限り排した原色の名演奏。
ドビュッシー:
・牧神の午後への前奏曲
・管弦楽のための「映像」
・交響組曲「春」
ピエール・ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団(1991.3録音)
ワーグナー的官能性を背後に追いやった、むしろ健康的ともいえる「牧神」に、おそらく僕は人生で初めてこの作品の意義を理解した。愛と死とは表裏であるにもかかわらず、ここには「生きることへの渇望」しかない。主題を奏するフルートも、伴奏のハープも、そしてその他のどの楽器も殊更に明朗で快活、それがまた見事に決まっていて心地良い。
また、「映像」第2曲「イベリア」の3つのパートそれぞれの何とも儚い詩情に涙し、筆舌に尽くし難い懐かしさに感無量。
そして、ローマ留学中の若きドビュッシーが見たであろう自然の芽吹きが巧みに描かれた交響組曲「春」におけるブーレーズの、やはり確信に満ちた解釈に耳を奪われる。音楽のあまりの美しさに25歳の青年作曲家の(現代のポピュラー音楽にも通じゆく)千里眼的天才を思うのである(もっともオーケストレーションは1912年、作曲者の指示に従ってビュッセルによってなされたのだけれど)。
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ヴァーグナーの息子、ジークフリートの作品はCPOで聴くことができます。一度、聴いてみたいと思います。