プロコフィエフも自分自身と闘っているんだ

例によってセルゲイ・クーセヴィツキーの委嘱により作曲され、1925年に委嘱者によりパリで初演されたプロコフィエフの交響曲。
別名「鉄と鋼の交響曲」と呼ばれ、ベートーヴェンの作品111のソナタを意識して書かれた作品だが、これまた若い頃に受けた印象とは打って変わって非常に受け容れ易い。当時の音楽後進国であるアメリカ大陸ではさっぱり人気の出なかったプロコフィエフだが、意を決してヨーロッパに移っても相変わらず聴衆の反応は冷淡だったらしい。
そのことは決して不幸だとは僕は思わない。天才の作風というのは得てして「その時」は誰にも顧みられることのないものだから。必ず時代が追いつき、人々から受け容れられる、愛される時期というのは来るもの。さしずめプロコフィエフの場合は21世紀に入ってからいよいよ一般にも理解されつつあるのではないか(それは僕自身がそうだから勝手な独自の意見かもしれないけれど)。

頑強な塊、そして異様な重さ(ロックでいうところのレッド・ツェッペリンのそれと相似形)、第2交響曲を形容する言葉はそのことに尽きるが、実際のところは強烈な不協和音に混じりながら、何とも素敵な抒情的ロシア的旋律に溢れるところ。聴いていてある瞬間ほろっと涙がこぼれる、そんな感じ。

プロコフィエフ:
・交響曲第2番ニ短調作品40
・「ロメオとジュリエット」組曲第1番作品64bis
―フォーク・ダンス
―情景
―マドリガル
―メヌエット
―仮面
―ロメオとジュリエット
―ティボルトの死
ネーメ・ヤルヴィ指揮スコティッシュ・ナショナル管弦楽団

ベートーヴェンの晩年は自身との闘いであり、どうやらすべてとひとつにつながってゆく感覚を獲得し始めていたのではないかと作品111を聴くたびに思う。その傑作を規範にしたとしても、若きプロコフィエフのものはあくまで敵との抗争。相手はスターリンかもしれぬ、あるいはフランス六人組という音楽的ライバルかもしれぬ。ともかく血気盛んで売り言葉に買い言葉的な、喜怒哀楽に満ちたフレーズが多発する。
ちなみに、付録の「ロメオとジュリエット」組曲は良い音楽だ。亡命からソビエトに戻り、様々な苦悩の中で生み出されたこの作品は偉大だ。とにかく「わかりやすい」。そして美しい。

この2つの作品を聴き終えて思った。
あ、やっぱりプロコフィエフも自分自身と闘っているんだ。


2 COMMENTS

雅之

>別名「鉄と鋼の交響曲」

そう、アレクサンドル・モソロフの「鉄工場」
http://www.hmv.co.jp/product/detail/3693897
や、ショスタコの第4交響曲なども、同じ精神・文化的土壌から生まれているように感じます。

しかし、じつはラヴェル「ボレロ」もそうだったとは・・・。

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岡本 浩和

>雅之様

>同じ精神・文化的土壌から生まれているように感じます。

20世紀前半、特に第2次大戦前の世界というのはいろんな意味で刺激的ですね。

>しかし、じつはラヴェル「ボレロ」もそうだったとは・・・。

外見は全く違いますが・・・。

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