シンフォニア四重奏団のグールド弦楽四重奏曲作品1(1960.3.13録音)を聴いて思ふ

gould_string_quartet752この「四重奏曲」は自分の音楽的成長の一時点をあらわしていて、ある種の感傷をもってふりかえらずにいられない。少壮作曲家が作品一のなかでその思春期にひじょうに深い作用を受けた(「影響された」という語はおそらくあまりに決定的すぎるだろう)事柄のすべてを主観的に総合し、それを不用意に投げ出したとしても、もちろんめずらしいことではない。
ティム・ペイジ編/野水瑞穂訳「グレン・グールド著作集1―バッハからブーレーズへ」P346-347

たったひとつの楽章に込められた作曲家の想い。
すべてが過去の想い出からとられたものならば、それは真実だ。それゆえにどの瞬間も本当に美しく、深い情感を湛える。
自身が再現者になった時、彼の表現は実に風変わりだけれど、誰にも文句を言わせない、そして非常な説得力を持った演奏となる。創造者として一切の妥協を許さない姿勢におそらく誰もが共感するからだろう。
ところで、記念すべき第1番の作品番号を持つ四重奏曲について彼は次のように語る。

いずれにせよ、実際のところ、二十世紀も半ばになって、若い作曲家がウィーン派ロマン主義の記憶をかき立てるかと思える作品を書くなど、相当におどろくべきことなのだ。本作品を最初にピアノで聴いて、友人たちはびっくりし、ショックを受けた。かれらは、たぶん点描法的に精密な作品を期待していたのだろう、わたしに抗議を唱えた。おまえはシェーンベルクやヴェーベルン賛仰をあのようにはっきりと表明しているのに、どうしてこんなにもむげにその節を曲げることができるのか。
~同上書P339

思考と感情とは対立的だということか。いや、そうではあるまい。彼にとって創造行為は好き嫌いを超えた「遊び」なのだ。周囲がそういう反応を示すことをわかっていてあえてする(ある種)嫌がらせは彼の常套。かのモーツァルトのソナタ集を思い出す。

そう、答はまったく単純素朴なものだ。ほかの研究者と違って、わたしはあるものに情熱を捧げてもそれと同じだけの敵意をほかへ向けるということはめったにない。たとえばわたしがシェーンベルクの音楽にたいへん敬意を抱いているとしても、それを強化するためにシェーンベルクより一世代前のウィーン派ロマン主義者たちにその逆の感情を抱くことはない。
~同上書P340

それでいて自作には「感傷をもってふりかえらずにいられない」というのだから、この人はよほど矛盾を抱えた人なのだろう。
世界は矛盾に満ちている。だからこそそのすべてが興味深い。

・グールド:弦楽四重奏曲作品1(1960.3.13録音)
シンフォニア四重奏団
クルト・レーベル(ヴァイオリン)
エルマー・セッツァー(ヴァイオリン)
トム・ブレンナンド(ヴィオラ)
トーマス・リベルティ(チェロ)

序奏の何という儚さ。あるいは、作曲者自身も「無暗に長い」と注釈をつけるコーダ(何と300小節超!)の独創性。グレン・グールドは何より音楽を愛しているのだということがわかる。
ちなみに、中間部、すなわち展開部は精緻で見事なフーガ形式によって書かれており、ここはグールドの真骨頂。
彼は心根の優しい、魂の美しい人だったのだと思う。
(だからこそさぞかし生きにくかったことだろう)

 

ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。


音楽(全般) ブログランキングへ

にほんブログ村 クラシックブログへ
にほんブログ村


2 COMMENTS

雅之

確か1980年代前半のレコ芸で、グールドのインタビュー記事が紹介されていて、その中で彼は、「私は晴れより曇りの日のほうが好きだが、ある時、世の中には晴れの日のほうが好きな人が圧倒的に多いと知って、心底衝撃を受けた」といった主旨のことを語っていたのが、とても印象に残っています。

>だからこそさぞかし生きにくかったことだろう

素朴な疑問。世の中に、本心でこの世が生きやすいと思ってる人なんているんでしょうかね。本当にそんな能天気な人が存在するなら、ぜひともお目にかかりたいものですが・・・、私もグールド同様、衝撃を受けるのかな(笑)。

返信する
岡本 浩和

>雅之様

確かにそんな記事を見かけた記憶は僕にもございます。
グールドの言葉を思うにつけ、僕たちは「常識」という概念に縛られ過ぎてますね。
時代や所が変われば「常識」も変わるのに・・・。

兎角に人の世は生きにくい、ですね。

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください