自らの防衛すら顧みず、前進することこそ変革の種だ。
世間ではそういう「改革推進者」は時に「変人」呼ばわりされる。しかしながら、時代を経て、真に世界が変わった時には、逆にその人は「偉人」として崇められる。
いずれにせよ評価など何の価値にもならぬ。自身の信じる道を歩むだけだ。
三島由紀夫の言葉に膝を打った。
変革とは、このような叫びを、死にいたるまで叫びつづけることである。その結果が死であっても構わぬ。死は現象には属さないからだ。うまずたゆまず、魂の叫びをあげ、それを現象への融解から救い上げ、精神の最終証明として後世にのこすことだ。言葉は形であり、行動も形でなければならぬ。文化とは形であり、形こそすべてなのだ、と信ずる点で、私は古代ギリシャ人と同じである。
「変革の思想」とは(読売新聞1970年1月19日、21日&22日)
~「KAWADE夢ムック三島由紀夫」(河出書房新社)P113
システムに(計算して)乗っかる人間というのは実にずるい生き物で、あれやこれやと勝手なことを言いつつも生命までは決してかけない。所詮自分自身が一番かわいいのである。
現実とはある意味正反対の価値観を持つ世界が芸術なのかも。それは文学も絵画も、そして音楽についても同様。古今東西、天才といわれた人たちの多くは、食うものも食わず、飲むものも飲まず、創造行為に没頭した。やればやるほど疲弊していくことがわかりながらやっぱりその行動は止められなかった。
モーツァルトの魂が目指していたものも果たして「変革」だったのだろうか?
晩年の変ホ長調交響曲を聴くにつけ、この曲が外見はいかにも明朗で愉悦的な態をもちながら、内側から哀愁と苦悩が止めどなく滲み出ることに彼がやっぱり死をも怖れず「変革」を目指していただろうことを想像する。
モーツァルト:
・交響曲第39番変ホ長調K.543(1992.3.19&20録音)
・オーボエ、クラリネット、ホルン、バスーンと管弦楽のための協奏交響曲変ホ長調K.297b(1991.2.14&15録音)
ハンスイェルク・シュレンベルガー(オーボエ)
アロイス・ブラントホーファー(クラリネット)
ノルベルト・ハウプトマン(ホルン)
ダニエーレ・ダミアーノ(バスーン)
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ジュリーニの堂々たる表現。第1楽章の序奏から深い呼吸と祈りに満ち、音楽は天高く上りゆく。主部アレグロの生命力と温和な音調は円熟期のこの人ならでは。第2楽章アンダンテ・コン・モートも緩やかなテンポの中で歌われる自然の賛美。
また、第3楽章メヌエットの余裕あり過ぎる悠揚たるテンポは賛否両論か?!それにしても終結の何とも言えぬ優しさに感動。
終楽章アレグロも確かに遅い。しかし、まったく違和感を覚えぬまま全曲があっという間に通り過ぎていくのである。この、時間を感じさせないところがジュリーニの魔法なのだ。
ちなみに、「協奏交響曲」も軽快さなしのどちらかというと重厚な表現。しかしここにも喜びが確かにある。
三島は語る。
変革とは一つのプランに向かって着々と進むことではなく、一つの叫びを叫びつづけることだ、という考えが、私の場合には牢固としている。
~同上書P113
彼がちょうど45年前の今日自決という行為を選んだ是非はともかくとし、この確固とした信念は素敵だ。
モーツァルトは美しい。
老練のジュリーニは美しい。
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