ムーティ指揮フィラデルフィア管のスクリャービン交響曲第1番を聴いて思ふ

scriabin_muti_philadelphia276夜明け前のアレクサンドル・スクリャービン。
ショパンを敬愛した作曲家の、いわゆる神秘主義に傾倒する前の作品の、浪漫的かつ肉感的な音楽に僕は快哉を叫ぶ。
ヨーロッパの中心にあった大作曲家たちのイディオムを採り込み、その上で自身のロシア的憂愁に根ざした才能を十分に発露し、6楽章の大交響曲に仕立て上げる天才。ここには、ベートーヴェンがあり、またワーグナーもあり、シューマンやマーラーの木魂さえ聴こえるのである。

「スクリャービン氏の交響曲は、あまり成功したとは言えない。その原因は、この天才児の複雑さにあった。並みの人間には理解する用意がなかったのだ。第1楽章は、表面的には美しく、静かな点ですばらしい。しかし、交響曲全体がたった2つの変化しか持っていないため、作品そのものはいささか単調に聞こえる」と批評家リャプーノフは記していた。
藤野幸雄著「モスクワの憂鬱」(彩流社)P115

初演当時、どれほど最低の評価が下されようと、この音楽の内側にある濃厚なエロスはワーグナー以上であるし、外面に漲る美しさについてもマーラーやシューマンのそれを凌駕する。
それにしても批評に対する作曲者の反応が何とも興味深い。自身の不健康のせいだとするのである。その「不健康さ」にこそスクリャービンの大いなる魅力があるというのに・・・。

これが連中のやりかたなんだ。わたしが健康でありさえしたら、見せてやれるんだ。わたしだって自分の言いたいことがあるのを示してやれるんだ。
~同上書P115

・スクリャービン:交響曲第1番ホ長調作品26
ステファニア・トツィスカ(メゾソプラノ)
マイケル・マイヤーズ(テノール)
ウェストミンスター合唱団
リッカルド・ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団

静謐な第1楽章レントに準ずる第2楽章アレグロ・ドラマティコに垣間見るロベルト・シューマンの狂気。しかし、シューマンほど危うくはなく、音楽は直接的に僕たちの心に忍び寄る。美しい。
第3楽章レントの官能、第4楽章スケルツォ(ヴィヴァーチェ)の諧謔に続く第5楽章アレグロの、ワーグナーの如くの魔性。表層的な気配がないでもないが、この音楽には、はまる・・・。
そして、合唱を伴う終楽章アンダンテのマーラーの「復活」交響曲さながらの解放は、世間がどんなにうんざりしようと、当時のスクリャービンの「芸術至上主義」の音化の最高の形であると断言する。
ムーティ&フィラデルフィア管のあまりに楽観的な音調に惚れ惚れし、ウェストミンスター合唱団の歌に感動する。

20世紀を迎える直前に、私はスクリャービンの「第1交響曲」を耳にした。朝、ゲネプロがあった。旧貴族院のやや薄暗い列柱大広間に、音楽家たちが集まった。スクリャービンに対する私の懐疑的態度は消えなかった。しかし多くの音楽家は、曲を既に聴いたり知ったりしていて会場は熱狂している。「交響曲」がなぜか6楽章からなっていて、ベートーヴェンの「第9」のように合唱つきだったことも、私をいらいらさせた―奇を衒う傲慢さを感じて強い反感を抱いた。
レオニード・サバネーエフ著/森松皓子訳「スクリャービン―晩年に明かされた創作秘話」(音楽之友社)P5

なるほど、一部の専門家を除き、当時の聴衆の多くは(実は)感激していたのだと思う。

 

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