2016年3月20日日曜日、春分である。
大いなる変革の時、何より「素直」であることが最重要。感じるままに。
パスカルが「考える葦である」と言ったように、人間は良くも悪くも思考の生き物である。よって自らを枠の中に閉じ込めてしまう危険性がある。
真理を枠に閉じ込めたのが宗教だとするならば、宇宙を枠に閉じ込めたものが芸術であり、音楽だ。しかしながら、その枠は極めて洗練された枠であり、それらが実体を成すために必要な方法なのである。真に美しい。
アントニオ・ヴィヴァルディの「クレドホ短調」。
4つのパートに分けられた両端の音楽の前進性、そして、中間部の荘厳な祈り。
ジュリーニの濃密で深遠な表現でこそこの作品は本領を発揮する。合唱パートの開放性こそが魂の解放につながる大いなる技。
わたしは信じます。唯一の神、
全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの
すべてのものの造り主を。
~クレド第1部
ちっぽけな我が身に囚われるなと。すべてに委ねよと。
・ヴィヴァルディ:クレドホ短調RV.591(1991録音)
・ヴェルディ:聖歌四篇(1990Live)
シャロン・スウィート(ソプラノ)
エルンスト・ゼンフ合唱団
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
晩年のバーンスタインの音楽が濃厚なうねりを見せるのに対し、晩年のジュリーニのそれは誠実な祈り。
ヴェルディの「聖歌四篇」から第1曲「アヴェ・マリア」は真実に溢れる。
慶(めで)たし聖寵満(みちみ)てるマリア、
主、爾(なんじ)と共に在(まし)ます、
爾は女の中にて祝せらる、
また御胎の御子イエズス祝せられ給ふ。
また、第2曲「スターバト・マーテル」の哀感。
御子の磔られたまへるや、悲哀(かなし)める母は涙に咽(むせ)びて十字架の下に佇(たたず)めり。
激しく涙する音楽の妙、そして、虚ろに佇む旋律の美。このどうにもならない感情の発露はジュリーニの真骨頂。
そして、第3曲「処女マリアへの讃歌」の女声合唱の透明感。
さらには、終曲「テ・デウム」における冒頭男声合唱の儚さ、あるいは続く混声合唱の静寂。
我等神を讃美し奉り、主なることを公言し奉る。
世界遍(あまね)く主を永遠の父と崇め奉る。
諸(もろもろ)の天使も天も、勢いある者も、皆主に歌い奉る。
ケルビムもセラピムも間断(たえま)なく讃称(たた)えて、曰く。
直後の、圧倒的な「サンクトゥス」の場面にヴェルディの天才を思う。
聖なる哉(かな)。聖なる哉。聖なる哉万軍の神なる主。
主の光栄(さかえ)の威光、天地に充満(みちみ)ち給う。
光栄なる使徒の一隊も。
名誉ある預言者の一列も。
白妙なる殉教者の一軍も、皆悉(ことごと)く主を讃美し奉る。
すべては大宇宙(大自然)と一体だということだ。
※「聖歌四篇」対訳は、サイト「オペラ対訳プロジェクト」から引用。
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>パスカルが「考える葦である」と言ったように、人間は良くも悪くも思考の生き物である。よって自らを枠の中に閉じ込めてしまう危険性がある。
>真理を枠に閉じ込めたのが宗教だとするならば、宇宙を枠に閉じ込めたものが芸術であり、音楽だ。しかしながら、その枠は極めて洗練された枠であり、それらが実体を成すために必要な方法なのである。真に美しい。
・・・・・・真の証明が存在するということはありうる。だが、それは確実ではない。
だから、これは、すべて不確実であるというのは確実ではないということを示すものに他ならない。懐疑論の栄光のために。・・・・・・
・・・・・・懐疑論者、ストア哲学者、無神論者たちなどのすべての原理は真である。だが彼らの結論は誤っている。なぜなら、反対の原理もまた真であるからである。・・・・・・「パンセ」パスカル (著), 前田 陽一 (翻訳), 由木 康 (翻訳) 、(中公文庫 1973年) P244~247
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「99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方」竹内 薫 (著) (光文社新書)
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人間の思い込みこそが宗教であり芸術であり科学であって、それはすべて「第二の自然」としての、深淵極まりない美なのだと思います。
>雅之様
おはようございます。
>人間の思い込みこそが宗教であり芸術であり科学であって、それはすべて「第二の自然」としての、深淵極まりない美なのだと思います。
ああ、これはもうおっしゃる通りですね。
「第二の自然」という言葉が見事に腑に落ちます。
3/10の記事にいただいた次のコメントとつながります。
>今の私は、ブルックナーにせよシベリウスにせよ、しょせん本物の自然や宇宙の奥深さには到底かなわないとという感想を持っています。