シューベルトのソナチネ

シューベルトの音楽はいずれも「歌」に溢れる。
もう既に言い古された言葉だが、よく考えてみると僕自身はシューベルトの音楽にのめり込んだことは一度もなかった。自慢にも何にもならないが、週末の講座を見据えて集中的に彼の作品を聴いてみて、いつどのジャンルの音楽も流麗で美しい旋律を持ち、とても心地良い気分に誘ってくれる。
しかも、明るい調べの中に「哀しみ」が感じられ、一方暗い楽想にはどういうわけかほんの一瞬の「愉悦」が入り混じることが多数で、シューベルトは分裂していたのかとも思ったが、いや、これはモーツァルト同様喜怒哀楽・感情の全てが同質化し、明暗、陰陽がひとつになる、世のあらゆるものを包含する普遍性を秘めているんだなと納得した。彼も神の子だったか・・・。
よってシューベルトもわずか31歳で天に召されてしまった。原因は諸々説があるが、いずれにせよそれが寿命だったということだ。

1817年作曲のイ長調ヴァイオリン・ソナタには突如として巨大な、ベートーヴェンを髣髴とさせる世界が現れる。とても20歳の若者の創ったものとは思えない大きさ、そしてその1年前の、3つあるソナチネと呼ばれるヴァイオリン・ソナタとは明らかに質の異なる革新性。
シューベルトの作品は一般的に冗長だと言われる。しかし、シューベルティアンはその「天国的な長さ」が魅力的なのだという。僕も以前はあまりに長く感じてしまうその音楽について行けなくなることが多く、追究できなかったんだっけ。その長さに意味や理屈を見出せるのなら長尺も理解できるのだけど、と常々思っていたが、それって結局「頭で考えて聴いていた」ことになる。そもそもそれが違っていたのでは・・・。
シューベルトの音楽というのは「今を感じ、今を聴く」音楽なのではなかろうか?
短い人生を駆け抜けたシューベルトにとって、1日1日は長く濃いものだったはず。然らば、その音楽も物理的には半分、ひょっとすると3分の1ほどの容量であると捉えて聴いてみると興味深い。それは、時間を忘れ、空間を意識せず聴いてみるということだ。そこに気づいたとき、彼の音楽はすべてがより一層至宝となる。

シューベルト:
・ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ第2番イ短調D385
・ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ第3番ト短調D408
・「しぼめる花」の主題による序奏と変奏曲ホ短調D802作品160(遺作)(原曲:フルートとピアノのためのD802)
ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)
オレグ・マイセンベルク(ピアノ)(1991.8&1993.11録音)

1816年作のソナチネをメインにしたアルバムを聴いた。僕に言わせればこれは決してソナチネではない、立派なソナタたちだ。
終わりを意識しないこと。意識しようがしまいが「終わり」は突然に来る。ただ、ひたすらその瞬間の音に没入すること。例えば、第2番ソナチネ第1楽章の繰り返し出てくる主題の花のような美しさよ。19歳のシューベルトは残されている自分の「時」を悟っていたのだろうか・・・。ここには「永遠」が見え隠れする。
遺作の「しぼめる花」を主題にした変奏曲も素敵だ。


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