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brahms_streichsextet_alban_berg.jpg昨日の「みやらび太鼓」の公演中、激しい打楽器の音の中で、意識が遠のいていく瞬間が多々あった。そういう茫漠とした意識の中で見ていた映像は、1995年10月にダブル・トリオ編成で再々結成したKing Crimsonが来日し、中野サンプラザでコンサートを開いたときのこと。確か、このときの映像はLD&DVD化され一般発売されていると思う。もちろん、ライブ初体験のRedやLark’s Tangues in Aspic Part2は泣く子も黙る悶絶ものの演奏で、長年ライブに触れてみたいと願っていた僕にとってとても感動的なパフォーマンスだったが、中で、Bill BruffordとAdrian Brewがパーカッション・インプロヴィゼーションを繰り広げた(それはコンサート中の余興のような位置づけだと思うのだが)、その光景がまざまざと蘇ってきたのだ。
クラシックにしてもジャズにしても、そしてロック音楽にしても、ジャンルの壁を越えて「打楽器」が発するエネルギーはなぜこうも人の心を揺すぶるのか・・・。その時のたった二人でのパフォーマンスはともかくかっこよかった。

Guitar、 Bass、Percussionがそれぞれ2人ずつ、合計6人という編成のKing Crimsonの登場は、1970年代の第2期King Crimsonをもって史上最高、最強のProgressive Rockグループと考えている僕にとっても、衝撃的なもので、楽器を二重に重ねることで広がる表現の幅と厚み、そして深みにまずは驚かされる。そして、それによって倍増どころか何十倍のエネルギーと化し、観衆を怒涛の渦に巻き込んでくのである。

「3」は調和の数字である。その「3」を2倍にしたものが「6」。
「はじめに言葉ありき」、「はじめに六ありき」・・・。

どこで読んだのか記憶は定かでないが、この旧約聖書に書かれた「言葉」と言う文字は実は「6」という数字だったという説があるそうだ。それがどういう意味なのかはさすがにわからない。しかし、音楽の世界でも、バッハ、バルトークなどなど、6曲で一組ととらえて作品を発表しているケースが多い。意味深い不思議な数字である。

ブラームス:弦楽六重奏曲第2番ト長調作品36「アガーテ」
アマデウス・アンサンブル
アルバン・ベルク四重奏団員

通常の弦楽四重奏編成に、ヴィオラとチェロを重ね、厚みと深みを創出した1866年に完成された名曲。なぜ六重奏-ダブル弦楽トリオという編成であらねばならなかったのか・・・。
当時、熱烈な恋愛中であったアガーテ・フォン・ジーボルトとの婚約を「縛られるのが嫌だ」という身勝手な理由で破棄したブラームスが、それでも彼女に対する「想い」を拭い去ることができず、この六重奏曲を捧げたということだが、せめて自身の「恋人に対する熱烈な想い」を数十倍のエネルギーに変換して懺悔と感謝の意を表明しようとしたのだろうと解釈するのはあまりにもブラームスの肩を持ちすぎだろうか・・・。対人間への表現下手ないかにもブラームスらしいエピソードだと勝手に僕は推測する。

ところで、この曲を聴くと、1992年10月に、アマデウス・アンサンブルと澤和樹四重奏団のコラボレートによるカザルス・ホールでの公演で、ブラームスの2曲の六重奏曲が採り上げられることになり、喜び勇んで会場に足を運んだことを思い出す。それはそれは、人間ブラームスの情熱的であるにもかかわらず臆病な心情吐露が見事に表現された名演奏であった。


2 COMMENTS

雅之

ブラームスの弦楽六重奏曲は、楽器を重ねたがる、彼らしい曲ですね。
ただ、弦楽五重奏曲に比べると安定しすぎで、弾く方の緊張感、スリルは少なくなります。
演奏する側にとって室内楽の醍醐味を満喫できるのは、弦楽五重奏曲までだと、私は思っています。

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
>楽器を重ねたがる、彼らしい曲
なるほど、楽器を重ねたがる「癖」がブラームスにはあるんですね。
>演奏する側にとって室内楽の醍醐味を満喫できるのは、弦楽五重奏曲まで
さすがはヴィオラ奏者!演奏する側の立場からのコメントはとても勉強になります。緊張感やスリルがなくなるというのは僕のように「聴く」一辺倒の人間には想像できなかったことです。
ただ、そうだとしても安定感のある弦楽六重奏曲は僕にとって愛聴曲です。

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