アバド&ベルリン・フィルのマーラー交響曲第7番を聴いて思ふ

mahler_7_abbado_bpo暑いので少しばかり空想した。
グスタフ・マーラーの交響曲におけるシンメトリー構成はもちろん意識してのことだろうが、第5番も第7番も軸になるのは音楽的にも第3楽章だ。しかも、いずれの交響曲においても当該楽章の雰囲気は、おどけた「仮の姿」を表す如くである。ここに「現実」がある。頭脳で作り上げた「拵えもの感」満載の、語弊を怖れずに書くなら「人間社会の似非」を暴くかのような音楽が連綿と綴られるのである。そして、両端楽章こそが彼の本性であり、またそれらは表裏であると解釈できる。「人間社会」にもまれ、マーラーの性は明と暗を往き来し、最終的に「抑圧からの解放」を夢見る。しかしながら、どんなに暴れようと、どんなに弾けようと、根底にある「不安」や「不満」は一向に癒えることはない。第5番のフィナーレを聴いても、第7番の最終楽章に触れても、感じられるのはどこか不安定な「明朗さ」だ。

職人マーラーは自身の作品を自ら指揮することで推敲を重ねた。金子建志さんによる解説が興味深い。

マーラーは、自作を振る度にスコアに手を加えるのが常だった。彼の交響曲のように、様々な要素がごった煮のように詰め込まれている場合、演奏してみて初めて問題点が明らかになることが多いから、当然だろう。
例えば、A-B-Cというように3つの要素が並んでいる曲で、初演の際Bの部分に問題があることが判明したとしよう。そこでBを改訂し、A-B’-Cに直せば一件落着したかに思える。ところが今度は、Bの蔭に隠れて目立たなかったAやCの欠陥部分が露呈。それを改訂し、A’-B’-C’にしてみると、B’に新たな問題点が発覚し、再修正してB”に―というような完成度の追究を、マーラーは生涯に亙って繰り返していたのだ。
金子建志著「こだわり派のための名曲徹底分析 マーラーの交響曲」P198-199

完全主義者であるがゆえの「終わりのないループ」にマーラーは陥っていたということ。同著で金子氏は、第5番までが繰り返し何度も本人によって指揮されたことで度重なる修正が加えられ、より完璧なスコアができ上がった一方で、第6番から第8番まではそれが激減、さらに「大地の歌」や9番に至っては結局指揮できなかったことがスコアの完成度を低くしていることを指摘されている。

なるほど、専門家でない僕からしてみると、第5番までの音楽に感じられる「窮屈さ」はそういうところ、すなわちマーラー自身の意図や意志が一層細かく反映されているところから生じるものなのだろうと思われる次第。

ところで、先日、「ベニスに死す」を観て、音楽とはそもそも「曖昧なものだ」というアルフレッドの言葉に納得したのだが、特に第7番や第9番などに見る「曖昧さ」こそが彼の音楽をより一層雄弁にし、親しみやすくしているのではないかとも僕は考えた(その一方で不要な楽想が頻出する「支離滅裂さ」はやっぱり免れない)。

マーラー:交響曲第7番ホ短調
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(2001.5Live)

アバドの音楽作りは、シカゴ響との旧盤に比して一層純度を増している。ベルリン・フィルの機能性を最大限に生かし、アバド自身の老練の(?)棒さばきがシナジーをもたらし、実に豊かな音楽性に溢れる、聴いていて一切の弛緩を感じさせない、それどころかこの作品がマーラーの最高傑作ではなかろうかという思いすら抱かせる屈指の再現だと断言しても良い。
何より、初演時以来物議を醸す終楽章ロンド―フィナーレのこれ以上ない歓喜の爆発と、内部に蠢く悲哀の表現は随一で、実に説得力があり、マーラー演奏史上最高のひとつであると言っても過言でない。何より、何度聴いてもまた聴きたくなるという「麻薬」のような演奏なのである。

 

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