アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクスのハイドン「告別」交響曲ほか(1988.5録音)を聴いて思ふ

haydn_harnoncourt_concentus_musicus555やはり、現代人が、今日の生活感覚をもって、自分がかくあればよしと考える方法によって、古楽器をもって、美しいと感じられるように再現するほかはないのだ。用いる楽器は古くとも、その楽器からうける感じと、それを演奏する感覚と意識とは、たとえ、ホグウッドとエンシェント室内管弦楽団にしても、またアーノンクールとウィーン・コンツェントゥス・ムジクスでも、また、コレギウム・アウレウム合奏団でも変わりがない。
村田武雄「現時点の過去」
~「レコード芸術」1983年9月号P67

ここでの村田武雄氏の「時代考証云々は抜きにして現代の耳が美しいと感じられるかどうかが大事だ」という論はその通りだと思う。しかしながら、少なくともアーノンクール&ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスとホグウッド&エンシェント室内管弦楽団、あるいはコレギウム・アウレウム合奏団とはその芸術の質が明らかに異なる(と僕は思う)。
特筆すべきは、アーノンクールのハイドン!!

ほぼ同時期に完成なったモーツァルトの小ト短調を思わせる、勢いある動的な「告別」交響曲第1楽章アレグロ・アッサイから見事に惹き込まれる。
生き生きとした、たった今生まれたばかりに思える響き。月並みだが、「鮮烈」という文字が相応しい演奏。真にニコラウス・アーノンクールの振るヨーゼフ・ハイドンは格別だ。

エステルハージ家に仕えたハイドンだからこその保守と革新の同居。侯爵家の人々はおそらくその「新しさ」に戸惑っただろう。それでも時代の空気をうまく反映させながら、新しい試みを生み出す作曲家の才は止まるところを知らなかった。
いわばモーツァルトのユーモアとは異なるストイックさ。
アーノンクールがシンパシーを覚えたのはハイドンのその生真面目さなのかもしれない。

ハイドン:
・交響曲第45番嬰へ短調Hob.I:45「告別」
・交響曲第60番ハ長調Hob.I:60「うかつ者」
ニコラウス・アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス(1988.5録音)

12分に及ぶ第2楽章アダージョの優雅、また哀感。これほど呼吸の深くも空気のように邪魔にならぬ、それでいて必要な音楽があろうか。
また、弾ける第3楽章メヌエットの愉快とトリオのホルンの慈しみ。
終楽章プレストは、いかにも侯爵家の人々を勇気づける夏の音楽だ。一方、アダージョに移行してからの言葉に表し難い寂寥感(奏者が一人一人順番に去って行くのだからそれは当然。しかし、これほど音楽的に満ち足りた演奏があろうか)!!

ところで、6楽章を持つ第60番ハ長調第1楽章の雄渾な音響はモーツァルトの傑作「ジュピター」交響曲に匹敵するのでは?
相変わらずアタックは激しい。金管が咆える。弦楽器が唸る。強音部の爆発力と弱音部の嫋やかさの見事な対比!
何よりアダージョの柔和さとアレグロの鋭利な表現が交差する第5楽章はアーノンクールの真骨頂。

真に情感豊かで、かつ美しいハイドン。

 

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