観自在菩薩

さすがにピアニストとしても一流の腕を持っていたショスタコーヴィチのピアノ曲は他のジャンルの作品に比較しても追随を許さない縦横無尽の余裕があるように僕には感じられる。少なくとも自分の手足のように自由に楽想が溢れ出し、元気なはしゃぎあり、静謐な祈りありとどの瞬間も一切の無駄がない、人生そのものであり、宇宙そのものだと言っても過言でない。
例えば、作品102の番号を持つ協奏曲第2番。1957年、ショスタコーヴィチ51歳の時のこの作品の簡潔なわかりやすさと古典的な形式はおそらく体制への迎合でありながら、実に神と一体化した信仰に満ちており、繰り返し何度耳にしても感動を新たにする。
ショスタコーヴィチは神を信じていたのか?もちろん「イエス」であると僕は思う。では、彼にとって神は何処にいたのか。それは自身の内に。共産主義という宗教を否定した国家の中にいながら、彼は自身の内部に「神」を観ていた。そう、般若心経でいうところの「観自在菩薩」。

春めく季節の中で、ショスタコーヴィチのピアノ音楽を聴く。ラフマニノフのようなメランコリーはそこにはなく、チャイコフスキーのような女々しさもなく、ただひたすら「ありのままの楽音」が流れるままにそこに在る。

ショスタコーヴィチ:
・ピアノ協奏曲第1番ハ短調作品35
・ピアノ協奏曲第2番ヘ長調作品102
・ピアノ・ソナタ第2番ロ短調作品61
エリーザベト・レオンスカヤ(ピアノ)
ゲーリー・ボードナー(トランペット)
ヒュー・ヴォルフ指揮セント・ポール室内管弦楽団

様々なジャンルを吸収し、自身の音楽としてアウフヘーベンするショスタコーヴィチの天才が余すところなく伝えられる名作たち。キース・ジャレットは間違いなくショスタコーヴィチの影響を受けていると、本日、あらためて確信した。
有名な第1協奏曲はともかくとして、第2ソナタの何たる美しさよ。
ほとんど注目されることのない作品のように思うが、「24の前奏曲」から10年を経て創作されたこの音楽の、戦時中の作品にも関わらず何と前向きで希望に満ちていることか(この8年後に大作「24の前奏曲とフーガ」が世に出ることになる。まさにスパイラル的進化を遂げるショスタコのピアノ音楽!)!!

レオンスカヤのピアノは限りなく透明でありながら、感情に富む人間的なものと祈りに満ちた神懸かりとの間で揺らぐ。


2 COMMENTS

雅之

こんばんは。

>彼は自身の内部に「神」を観ていた。そう、般若心経でいうところの「観自在菩薩」。

このあたりはまた、いろんな考え方が成り立つのでしょうが、
ショスタコが、ムーサ(ミューズ)の女神たちに
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%B5
愛されていたのは事実です。いや、これは絶対に相思相愛。いいなあ(笑)。

>第2ソナタの何たる美しさよ。

同感!! 私も好きな盤です。

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。

>ショスタコが、ムーサ(ミューズ)の女神たちに愛されていたのは事実です。いや、これは絶対に相思相愛

まさにその通りですね。20世紀はもちろんのこと、音楽史的にみても最高の音楽家だと思います。

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