アンドレイ・タルコフスキー監督「ストーカー」(1979)を観て思ふ

tarkovsky_stalker554信仰を失った、科学万能主義の現代社会への警告であるという捉え方が一般的だろう。
そのことはタルコフスキー自身も自著で語っている。

「ストーカー」のなかで響くべき主要テーマとは、なんだったろうか。ありふれた言い方をすれば、それは人間の尊厳というテーマ、この尊厳とはなんであるのかということ、そして尊厳の欠如に苦しむ人間というテーマである。・・・(中略)・・・彼ら(作家と教授)は、自分自身を信じるほどの精神的力をみずからのなかに見出だすことができない。しかし、自らの内部を覗きこみ、身震いする力は持っていたのだ。・・・(中略)・・・彼女(ストーカーの妻)の愛と忠誠は、作家も教授もその犠牲者である現代世界を貫く不信、シニシズム、空虚に対置することのできる、最後の奇跡なのだ。
アンドレイ・タルコフスキー著/鴻英良訳「刻印された時間―映像のポエジア」(キネマ旬報社)P288

人々の喪失と迷いに対し、聖愚者が救いの手を差し伸べるものの適わず、最後は女性の純愛が奇蹟を喚起するだろうというイメージは、それこそワーグナーの思想に通じるもの。
しかしながらそれはあくまで表面上のことであって、僕は、タルコフスキー自身の「無意識」のうちにはその意図はなかったように思うのである。
おそらく彼が内心意図したことは、真の救いとなる「奥義」の存在の周知ではなかったか・・・。

ロマンティストのシンボルたる小説家と現実主義の象徴たる物理学の教授をゾーンに案内するストーカー(案内人)は、「私の使命はただひとつ。私のように傷ついた人々を救うことだ」と公言しつつも、二人の行動に都度信仰が揺らぐ。カルマを抱える聖愚者の彼が最後に妻に吐き出す言葉は、「もう誰も連れて行くまい。お前まで失いたくない」という弱音。
「部屋」の前まで案内しながら自身は入室できない彼は、「ここに入れば心に描いた夢が叶えられるのです。最も誠実で、どんな犠牲にも色褪せない夢が。大事なのは信じることです」と言いつつも、結局は「自分自身を信じることができない」のである。

現実は幻であり、幻こそが真実であると言わんばかりに、映画の中ではゾーン内部のシーンはカラーで撮られ、前後の酒場でのシーンは暗澹たるモノクロームで撮影されている。
神はまさに自身の内側にあるのだ。
そして、真に自分自身を信じられなければその悟りは得られない。

ちなみに、ストーカーは酒を否定する。また、酒場で作家は、ひらめきを取り戻したいと言いながら、自分が何を求めているのかわからない、菜食主義を唱えながら肉の味をも求めているのだと嘆く。いわゆる「奥義」を求めながら、現代という毒に侵された彼はやっぱり直前で自らを信じられなくなるようだ。信仰を失ったものにはその道の獲得は決して容易くない。
当時、禅宗に心酔していたタルコフスキー監督が、おそらく無意識下でゾーンこそが「奥義」であることを描こうとしたことは間違いあるまい。

・アンドレイ・タルコフスキー監督「ストーカー」(1979年)
アレクサンドル・カイダノフスキー(ストーカー)
アナトリー・ソロニーツィン(作家)
ニコライ・グリニコ(科学者)
アリーサ・フレインドリフ(ストーカーの妻)
ナターシャ・アブラモヴァ(ストーカーの娘)
監督:アンドレイ・タルコフスキー
原作・脚本:アルカージー・ストルガツキー/ボリス・ストルガツキー
撮影:アレクサンドル・クニャジンスキー
美術:アンドレイ・タルコフスキー
音楽:エドゥアルド・アルテミエフ

ストーカーは語る。

思うがままに行くがいい。信じるままに。
情熱などあざ笑え。
彼らの言う「情熱」は心の活力ではない。
魂と外界との衝突でしかない。
大切なのは、自分を信じること。
子供のように無力になること。
無力こそ偉大なのだ。
力に価値はない。

ここには真理がある。
また、引き続いての彼の言葉にこそ、ゾーンが「奥義」であるであろう証がある。見事だ。

人は無力かつ無防備に生まれた。
死ぬ時には乾いて固まる。
木もそうだ。
しなやかに育ち、乾いて硬直し、枯れてゆく。
硬直と力は死と隣り合わせだ。
柔軟さと無力さは生の源。
硬直したものに勝利はない。

アンドレイ・タルコフスキーの命を懸けた最高傑作。
撮影当時、彼は心筋梗塞に倒れながらもこの映画の製作に邁進した。
何と、1978年9月20日の日記に見られる苦悩。

この映画の撮影はとても難しい。何も出来ていない。クニャジンスキーは撮影があまりうまくないのではないか。幻想シーンがうまくいかない。場所の感覚が出ていないのだ。それに雰囲気も欠落している。映画が失敗に終わるのではないかと心配している。
夢をどう撮ればいいのか、まるで考えが湧かない。このシーンはとてもシンプルでなければならないのだが。
アンドレイ・タルコフスキー著/鴻英良・佐々洋子訳「タルコフスキー日記」(キネマ旬報社)P262

ところで、映画完成後の1979年1月28日の日記には次のようにあり、真に興味深い。タルコフスキーがもっと長生きしていてくれたなら、ひょっとすると「ストーカー」の続編が製作され、彼の意図がもっと明確になっていたのかも。

次の映画で同じ俳優を使って「ストーカー」をさらに展開させたらどうなるだろうか?
ストーカーは人々を強制的に「部屋」に連れていくようになり、「神官」、ファシストになる。「幸福の強要」。
だが、そんな方法があるのだろうか。「幸福の強要」だって?
~同上書P282

うーむ、「幸福の強要」とは・・・。
幸せも不幸せもすべては本人の選択であり、また本人の思い込み。
何よりストーカー自身の精神は、人々を強要するほど強くないだろうに。

あるいは、1978年12月23日土曜日の日記。

最近私は、悲劇的試練とかなわぬ夢の時代が近づきつつあることを、いよいよはっきり感じる。
~同上書P266

現代は、まさに彼が予言したとおりの時代だ。
だからこそゾーンの「部屋」の扉を開け、「奥義」を手にする勇気を僕たちは持たねばならない。
なるほど、タルコフスキー本人が一番その「奥義」を求めていたのかも。

 

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3 COMMENTS

雅之

私の頭の中で、観てきたばかりの『FAKE』(監督:森達也)

http://www.fakemovie.jp/comments/

と、最近BDで鑑賞し直した『炎上』』(監督:市川崑)

http://www.amazon.co.jp/%E7%82%8E%E4%B8%8A-4K-Master-Blu-ray-%E5%B8%82%E5%B7%9D%E9%9B%B7%E8%94%B5/dp/B013DIH46I/ref=pd_cp_74_3?ie=UTF8&refRID=1ZW76595EGGNKA6WBY1F

と、『ストーカー』 や『サクリファイス』が激しく交錯しています。

確実に共通性があると直感しているものの、今はまだそれをうまく言葉にできません。

返信する
岡本 浩和

>雅之様

「FAKE」はまだ観ておりませんが、「炎上」と合わせて観た上で、雅之さんのおっしゃる「共通性」について考えてみたいと思います。
ありがとうございます。

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